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うたさんインタビュー


「見えない障害とともに生きる」— うたさんインタビュー


「私の願いは、私のような思いをする人が少しでも減ること」
歌さんは、10歳の頃にパニック障害を発症し、長い年月をかけて生きづらさと向き合いながら、教育の現場で子どもたちと関わってきた。そして現在は、アートを通じて自分の思いを表現し続けている。しかし、彼女の人生は決して平坦なものではなかった。

社会の仕組みからこぼれ落ちてしまう人々。見えない障害を抱えることで、理解されず、支援の枠組みから外れてしまう現実。そんな状況に直面しながらも、「知ってほしい」という強い思いを抱き続けてきた。

歌さんのこれまでの歩み、そして社会に対する願いを伺った。

「パニック障害とともに歩む日々」


—— まず、パニック障害を発症した当時のことを教えていただけますか?

うたさん:「私は10歳の頃にパニック障害を発症しました。でも、その時代には“パニック障害”という概念すらほとんど知られていなくて、周りの人に理解してもらうことはとても難しかったんです。精神科を受診する、不登校になる、そんな発想すらなくて、とにかく“頑張るしかない”という空気の中で生きていました。」

「症状は予測できないタイミングで現れます。突然息が苦しくなったり、めまいがしたり。そのたびに“また発作が起きるのではないか”という不安がつきまとい、いつの間にか、人混みを避けるようになっていました。でも、見た目には何の変化もないので、周りからは“元気そうなのに”と言われてしまう。そういう言葉をかけられるたびに、自分でも説明できない苦しさを抱えていました。」

「子どもたちが教えてくれたこと」


—— そんな状況の中で、教育の道に進まれたのですね。

うたさん:「そうなんです。なぜか勉強や音楽、図工、体育は得意で、先生になっていました(笑)。でも、大人の人間関係には苦しみました。世間の価値観や“普通”に適応することが求められる場面では、自分が無理をしてしまうことも多かったです。」

「そんな中で、子どもたちに救われました。彼らは、私の肩にそっと寄り添ってくれたり、自然に手をつないでくれたりしました。そこには、“障害がある・ない”という壁は存在しなくて、ただ“人と人”としてのつながりがあったんです。彼らの純粋な優しさに触れるたびに、“心が通じ合えば、障害なんて関係ないんだ”と思うことができました。」

「社会の仕組みの中で、私は常に“対象外”だった」


—— その後、障害者手帳や年金の申請が通ったのは、比較的最近だったと伺いました。

うたさん:「はい。発症から何十年も経って、ようやく5年前に障害者手帳と障害年金の申請が通りました。でも、それまでの間、ずっと“生きづらさ”と向き合い続けてきました。」

「私のように、見た目には分からない障害を持つ人は、社会の仕組みの中で“対象外”になることが多いんです。例えば、外出支援ひとつとっても、身体障害のある人には支援があるのに、パニック障害には理解が追いついていない。“元気に見えるから”という理由で、支援が受けられないことが何度もありました。」

「福祉制度を利用しようとしても、“制度上無理です”と即答されることがほとんど。就労支援の現場でも、“毎日決まった時間に通うのが難しい”という理由で働く機会を失ってしまうこともありました。」

「私は、この現実を“社会を責める”ために話しているのではありません。ただ、知ってほしい。知らなければ変わらないし、見えない障害を抱えている人たちの存在が、これからもずっと見過ごされてしまうから。」

「アートがくれた自由」


—— 現在は、アート活動に力を入れられていますね。

うたさん:「はい。富山県では、就労支援の場にアート系の取り組みがほとんどなく、自分で展示の場所を探しました。たどり着いたのが、北陸銀行のギャラリーでした。」
「支援を受けられなくても、自分でできることを模索しながら、作品展を開催してきました。スクラッチアート、写真、オイルパステル、色鉛筆の塗り絵……さまざまなジャンルに挑戦しています。」

「アートには、社会の枠組みにとらわれない自由があります。だからこそ、私のように“制度の枠からこぼれ落ちてしまった人”にとって、アートは“生きる場所”になり得るのではないかと思っています。」

「見えない障害があることを、知ってほしい」


—— 最後に、読者の皆さんに伝えたいことはありますか?

うたさん:「私の願いは、私のような思いをしながら生きる人が減っていくことです。見た目には分からない障害があることを、もっと多くの人に知ってもらえたら、社会の仕組みも少しずつ変わっていくかもしれません。」

「私たちは、歩けるからといって、どこへでも行けるわけではありません。行ける場所と行けない場所がある。そこを理解してくれる人が増えたら、それだけで救われる人がたくさんいると思います。」

「アートを通じて、私はこれからも“私の声”を届けていきたい。ひとりひとりが自分らしく生きられる社会になってほしいと願っています。」

長年の治療と身体への影響


—— パニック障害と向き合うなかで、治療の過程で感じたことはありますか?

うたさん:「わたしは10歳の頃からパニック障害とともに生きてきました。その中で、約40年間、薬を飲み続けています。薬のおかげで症状をコントロールできる部分もありましたが、長期間の服薬には副作用もあります。年を重ねるごとに、その影響を少しずつ実感するようになりました。」

「7年前の今日、胆石が見つかり、胆嚢を摘出するための手術を受けました。県立病院での検査を経て、2回の手術をすることになったんです。そのとき、これまで飲んできた薬の影響が、わたしの身体にも確実に蓄積していることを改めて知りました。」

「パニック障害の治療は、一人ひとり違うし、薬に頼らざるを得ないことも多い。でも、長年続けることで身体にどう影響するのか、もっと知っておきたかったと思うこともあります。」

—— それは、とても大きな決断だったのではないでしょうか?

うたさん:「そうですね。手術自体も大変でしたが、それ以上に、“見えない障害”だけでなく、“薬の影響”とも向き合わなければならないと気づいたとき、改めてこの病気の長さを実感しました。パニック障害だけではなく、長期的な治療を続けている方々にも、こうした影響があることを知ってもらえたらと思っています。」

伝えるという覚悟


—— うたさんにとって、これまでの経験をお話しいただくことは、どのような意味を持つのでしょうか?

うたさん:「正直に言うと、過去のことを振り返ることは、とても大きなエネルギーを使います。特に、文章を読み返すことで、フラッシュバックが起こる可能性もあります。過去の発作がよみがえるような感覚。それでも、わたしはこのインタビューを通して、自分の経験を伝えたいと思いました。」

—— それでも、こうして言葉にしてくださったのは、どんな思いからでしょうか?

うたさん:「わたしの話を読んで、“自分だけじゃない”と少しでも楽になる人がいるかもしれない。あるいは、“パニック障害について、もっと知ってみよう”と思う人がいるかもしれない。もし、たった一人でも、そう感じてくれる人がいるなら、それだけで意味があると思うんです。」

あとがき


うたさんのお話を伺い、見えない障害が持つ課題と、社会の仕組みの中で“対象外”となる人々の現実に触れました。
しかし、その中でも、彼女は希望を持ち続けています。アートを通じて、自分を表現し、社会に発信していく。福祉の制度に頼ることが難しくても、自分なりの道を探し続けている。

「知ること」が、社会を少しずつ変えていく第一歩。彼女の声が、少しでも多くの人に届くことを願います。
歌さんの作品展は今年も開催予定。ぜひ、彼女のアートに触れてみてください。

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#アート
#パニック障害

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