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確かなものは温もりだけ(?)

確かなものは 温もりだけ

BUMP OF CHICKENの曲「embrace」のことを思いながら、最近「シュタインズ・ゲート ゼロ」を見ています。(まだ5話までしか見ていません。)アマデウス(脳がデータ化された状態)の牧瀬紅莉栖との会話に夢中になっていたところを比屋定真帆に諭された岡部倫太郎は、紅莉栖の死を思い出し絶望するわけですが、果たして紅莉栖は死んだと言えるのでしょうか。フィジカルな存在は無くなってしまってはいますが、記憶、感情が存在し、姿は高解像度で画面上に映し出され、目を合わせて会話できるわけですから、(アマデウスの研究が真に成功しているのならば)紅莉栖は死んでいないとも考えられるのでは、と思ったのです。これはembraceの文脈で言うなら、確かなものは本当に温もりだけのなのだろうかという問いです。embraceの入ったアルバム「ユグドラシル」がリリースされたのは2004年ですが、シュタゲゼロを見としても藤原さんは「確かなものは温もりだけ」と思うのでしょうか。非常に気になるところです。(ちなみに僕はこの曲がとても好きです。)

(そもそもembraceで言う「温もり」はフィジカルに感じられる温度のことだけを言っているのかという疑問が生じますが、歌詞全体を見る限り、鼓動の話をしたり、身体の震えの話をしたり、視力の話をしたりと、身体性を中心に置いて展開していることが伺えるので、やはり「温もり」とは温度、体温のことのようです。)

これを考えることは自分の死生観を深く掘り下げることになりそうです。簡単に答えが出ることはなく、答えを見つけられるのかも分かりません。しかしこの問いについて考えることは大事なのではないかと思います。

例えば逆に、植物人間状態になった人はどうでしょうか。この状態の人を死んだと見做すことを残酷だと思う人は少なくないはずです。僕はこれについて考えたとき、その植物人間状態の人と親しい人たちがどう感じるかが全てだと思います。つまり生きているか死んでいるかは、赤の他人が判定しうるものではないと思います。

そうすると、牧瀬紅莉栖が死んだのは、岡部が死んだと思っているからという結論に行きつきます。目の前で紅莉栖が死んだフィジカルな感覚(正しくは殺してしまった感覚)が脳裏に焼き付いていることが、岡部にそう思わせている一番の原因だと思われます。つまりは、今、紅莉栖が生きているということをフィジカルに感じられないから死んだと思っているのではなく、紅莉栖が死んだことをフィジカルに感じたからそう思っているのではないかという考えに至ります。

そう考えると、結局は「確かなものは温もりだけ」なのかもしれません。

(続くかもしれない)

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