消費的日和見主義人生の閾値

大量消費社会が到来した。
モノだけでなくヒトを消費する時代も久しく、掃いて捨てるほど積み重なったコンテンツはまさしく日々に掃いて捨てられている。

推し活というワードがオタ活を侵略して何年が経っただろう。無職転生の話を道端で聞くことになる社会を誰が予想していたのだろう。

インターネット滅亡論をドナドナ唱え続ける僕らには到底想像できない。できなかった。

推し活はすでに定量化されている。
グッズを買い、ライブに通い、コミュニティに生きて消費を支える。
どこにでもありふれた推し活の形だ。
ジャンルや見た目は多少違えど、推し活というのはほとんど同じ形態を伴っている。

ブラインド商品を積み上げ、コミュニティに入り込み、知らない人間の感情をコンテンツとして日々を消費している。

いつの間にか、グッズを買わなくなっていた。
それは高校生に払える限度を超えそうだったとか、受験でそれどころじゃなかったとか、理由はそんなちんけなことだったのだと思う。

現代っ子として所有欲を掻き立てられる社会に生きている僕は当然のようにCDを買い集め、インタビューの載った雑誌を棚に飾っていた。
箱付きのCDは所有欲を満たしてくれたし、なにより並べた時の壮観さは格別だった。

それを、すべて人に譲った。苦労して手に入れた限定品も、今ではもう手に入らないTシャツも、CDも雑誌も色紙も全部一つの段ボールに詰まっていた。

部屋に残ったのは雑然としたがらくたと捨てる予定のごみ。それと、スマートフォンと自分だけだった。

インターネットではずるい人がずるい方法で欲を満たしている。
人の労力を自分のことのように誇り、存在しない輪郭をかたどって自分はこんなにも立派な人だと主張する。ぼやけた輪郭は不気味で、到底人の形なんて保っていない。

消費することに限界がきた。
同じところで立ち止まって財を消費するだけではコミュニティも広がらないし、ドーパミンもアドレナリンも満足に得られなくなってしまった。
心が打ち震える感動も、怒りも得られなくなってきた。
停滞し続けて衰えていくだけの現実に耐えられなくなってきてしまった。

逃げ道は多分ある。何かをなした気になって、人の名声を自分の人生をフリーライドしていくことだって、多分できるんだろう。
変わることよりずっと楽だし、なにより気分が良い。

でも、それだけじゃもうだめなんだと思う。
心が打ち震える景色を見るために、あの時見た世界の美しさに匹敵する何かを見るためには、もう逃げても意味はないんだろう。

環境を変えても結局自分が変わらなければ結末が変わることはなくて、いくら周りがすごくても、さみしさは紛らわせられない。

どれだけ拙くても、線が歪んでいてもこれが自分だと誇れる輪郭を、どうか紡げますように。

以上駄文、睡眠前


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