エンディングノート
最近、エンディングノートを買った。
19歳の身で大して書くことはないけど、それとなく埋めている。
振り返るほどの人生は無いけれど、物心ついた時には人が怖かった。当時の人といえば7個上の姉の友達か、近所の子供達くらい。
みんな自分より年上で、大きくて、怖かった。
喋るのが苦手で、ポコペンで鬼になった時、年上の女の子の名前を呼ぶのが恐ろしくで出来なかったのを覚えている。
保育園に入って、初めて同年代の子と触れ合った。
同い年の子との関わり方がわからなくって、一日中喋らない日もたくさんあったと思う。
当時はポケモンBWが出るか出ないかくらいの時期で、ツタージャに想いを馳せていた気がする。
当時は姉のお下がりのゲームボーイアドバンスSPとか、初代DSとかで遊んでいた。
ポケモンエメラルドを幼いながらにプレイしていた。
多分ストーリーは全然わからなくて、秘密基地ばかりいじっていたと思う。
5歳の時に、近所のお兄ちゃんからデュエマのガザリアス・ドラゴンと緑神龍グレゴリアス、キューティー・ルピアをもらった。
その後近所の古本屋で少しづつカードを集めて、デュエマをやるようになった。
初めて親に買ってもらったのはルナティックゴッドで、神帝スヴァとDEATHドラゲリオンが好きだった。当時はメタルファイトベイブレードも人気で、セブンイレブンにも売っていた。
小学校に上がって3DSを買ってもらった。
クリスマスプレゼントだった。初めてのソフトはなんだっただろう。ポケモンか、レイトンだったかも。
小学校2年生までの学校での記憶がほとんどない。
というのも、同い年の子との関わり方がわからない上に、同じ保育園から進学した3人はみんな女子で、圧倒的にぼっちだった。
その上両親は共働きで、学童に18時まで預けられていたのだ。
あまりに友達が出来なくて、母親に「お前を個別支援級に入れる」と言われた思い出がある。
今でも嫌な思い出だけど、当時は本当にショックを受けた。結局当時の担任に必要ないと言われて普通教室にしか通うことはなかったけれど、母親に面と向かってお前は特別な支援が必要があると言われるのは子供ながらにショックだった。
小学3年生の時には妖怪ウォッチが流行り始めて、なんとなく友達の輪に入れていたと思う。
とはいっても、すでにある輪の中にお邪魔していただけな気もする。
当時母親に言われ続けた「遊んでくれてるんだから感謝しなさい」という言葉がずっと残っていて、それがずっと刺さったまま抜けないでいる。
コミュニティに対してゲストとホストという観念がずっとあって、コミュニティに対してインスタントな参加をさせていただいているという気分が湧いてきてしまうのだ。
実際そんなことはないし、誰もそんなことを言ってくることはないけど、刺さったまま抜けないこの観念がずっと僕の首を絞めている。
小学4年生の夏休み、録画していたCSのキテレツ大百科を見ようとしたら、「中二病でも恋がしたい!」に放送変更されていて、見てはいけないものを見てしまったと思いながら恐る恐る1話を視聴した。
これが多分、人生で初めて見た深夜アニメだった。
当時、高校生の姉からひどく嫌われていて、桜蘭高校ホスト部を見ていたら部活終わりで帰宅した姉にバレて「子供が見るものじゃない」と怒られていた。
健やかにナードに育っていた僕に、県内有数の進学校で生徒会役員とソフトテニス部をやっていたキラキラJKの姉はあからさまな嫌悪感を示していた。
これは後から聞いた話だけど、「世の中全てを知ったような態度が気に食わなかった」と言われた。知らなさすぎる。
それに加えて、なぜか母が僕にだけ甘く、姉に厳しく当たっていたのも気に食わなかったんだろう。
ただでさえ毎日父と母が喧嘩していて嫌だったのに、姉まで母と喧嘩していたのだから本当に最悪だった。本当に誰も怒鳴らない日が存在しなかった。
でも、それと同時にちゃんと友達といえる人間関係が出来たのもこの時期だ。オタク仲間で今でも交流のある磯崎先生は当時からずっと絵を書いていて、今でもお絵描きを嗜むキラキラJDである。あと頭がいい。
当時は男女2,2のナードグループでわちゃわちゃとしていた。
そのうち一人は虚言癖を煩い、もう一人はツイフェミにかぶれLGBTを謡い最近年上の彼氏ができたらしいと磯崎が嘆いていた。
そんなこんなで小学校を卒業し、地元の公立中学校に進学した。
地元が川崎ということもあり、その地域で有名な土着のチンピラ一家の末っ子が同じ代にいて、それと同じ学校を避けるため(と国家公務員の子供とかがゴロゴロいた)に、中受組が半分を占めていて、かなりの数が初対面となった。
中学では当時SAOオーディナルスケールで見たクラインに憧れて剣道部に見学へ、そのまま入部することになる。
そこで部活仲間となった男子6人は今でも年1くらいで飯を食いにいく仲だ。
中学は全力でアニメオタクになり、Reゼロ、このすば、俺ガイル等々アニメ、ラノベを見まくっていた。
そうして中学3年生の夏、花譜を知った。
最初聞いた時はあまり耳が受け付けなかったけど、どこか気になってしまって定期的に試聴していた。
たしか命に嫌われているのPrayer ver.のコメントだったと思う。
「彼女の歌は決して手放しに上手と褒められないけれど、それでも聞きたいと思わせる不思議な力がある」
と書いてあった。
当時、プロの歌しか聴いたことがなかった僕には衝撃だった。
上手じゃない歌を魅力的に感じていいんだとその時初めて知った。
それから、花譜にのめり込んでいった。
不可解(再)の公演が決まった。チケットを申し込んだけど当たらなくて、そのままコロナの影響でオンラインライブになった。
初めて見た花譜のライブはすごくて、何よりこれを作り出したPIEDPIPERに尊敬の念を抱いた。
その少し前、高校受験の1ヶ月前に父親の肺がんが発覚した。ステージ4の末期がんだった。
治療方法なんてものはなく、ただ延命と抗がん剤投与を繰り返すだけの日々。
結局父親は受験の一週間前の2月2日7時14分に死んだ。死亡が知らされた後、談話室で一人卯月コウの誕生日配信を見ていた。
それからQ1があって、Q2があって、観測者と知り合った。
その間に高校生活が始まったけど、コロナで分散登校になり、まともに通えるようになったのは夏が明けた頃だった。
当時の高校の思い出といえば屋上で昼寝をしたり、学校の前の弁当屋の弁当が美味しかったとか、そんな感じ。
あとは入学祝いにデスクトップPCを買ってもらって、VALORANTをずっとやっていた。
そうしてるうちに不可解Q3が開催された。初めての現地ライブで、2日間3公演全て参加した。
当時神椿に抱えていた蟠りとか疑心に対する答えを全て出されたのがQ3だった。
もう今はあの時の感動を思い出せないけれど、素敵な夜だったことだけは覚えている。
神椿、というか花譜の完結を予感して、新たなコンテンツを探していた。
毎日YouTubeで「歌ってみた」で検索をかけてアップロード日順に並び替えて上からひとつづつ視聴していった。そこで見つけたのがパン野実々美の「フォニイ」だった。
歌い出しを聴いた瞬間、この人だと確信してFFに共有したのを覚えている。
結果的に現在、メジャーデビューを果たしたわけで先見の明は間違っていなかったんだろう。
そのまま高校生活はライブでいっぱいだった。
誘われるがまま、告知されるがままライブに通い続けた。
そうして大学受験を迎え、8月母親の子宮がんが見つかった。ステージ4で末期ではない。死ぬ可能性はあったけど、生きている可能性も残っていた。実際今も生きている。
朝起きた時、夜帰ってきた時、母親が生きているのか死んでいるのかがわからなくて怖かった。
体は痩せ細って皮と骨だけみたいで、明日には動かなくなっても不思議じゃなかった。
髪も抜け落ちて、喋らなくなり、ずっと寝ていた。
それでも受験はやってきて、毎日自習室に通っていた。塾は通っていなかったから学校の自習室に毎日放課後通って参考書を広げていた。
同じ階に屋上があったから、秋になってからは毎日缶コーヒーを買って、屋上で英単語帳とか文法書とかを眺めていた。
そうして受験を迎えて、第一志望に落ちて、第二志望の私立大学に受かった。
落ちたら死のうと思っていたから少し複雑だった。
母親に合格を伝えると「国立だったら学費半分だったのにね」と言われた。全てがどうでも良くなった。
そして5月、友達経由で神椿の絵描きさんに声をかけてもらって、神椿百花譜が始動した。
結局1年弱かけて7万字232ページのデカい本が完成した。240部刷ったけど最終的には完売して、国立国会図書館にも寄贈した。神椿の名前を永久に残すことに成功した。
そして今年、ボロボロだ。本当に何も成せていない。夏コミの原稿は落とすし、単位もぼろぼろ、やってることといえば生前整理くらい。
ここら辺が潮時なんだと思う。
凱旋リリイベが終わったら、次のぱんのイベントは参加できないし、他のライブの予定もない。行く気もない。デュエマもこの前の超CS横浜が引退試合だった。人間関係も希薄になってきた。
DJパーティーをやろうと思っていたけど呼びたい人は軒並み呼べないらしいし、夏コミの原稿を落として冬のやる気もなくなってしまった。
ゲームをする気もないし、本を読んでも目が滑る。
無気力堕落の人間になってしまった。
20年弱生きてきた結果は4,000文字にも満たないらしい。