〜折伏(しゃくぶく)とサイバネティクス〜もしくは、幼生成熟は人工生命の生存戦略か?
Spectator48 特集パソコンとヒッピー http://spectatorweb.com/
”THE OTHER SIDE OF COMPUTER & COUNTER CULTURE”
能勢伊勢雄インタビュー#1 …の積極的誤読…
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やはり、普遍性を目指すならば”文化”がカウンターなのかメインなのか?が最重要であるわけではないのです。二項対立に落ち込まない為にだけではなく、時空のローカリティに依存していては、そもそも時空を超えられません…。
となれば、カウンター・カルチャーの本質とは、「自然、半自然、反自然」のように、半眼の瞑想状態、アンドロギュノス(半陰陽)……ハーフ・オルタナティブを目指した日常の”姿勢”の事なのかもしれません。
もちろんカウンター・カルチャーとマイノリティもイコールではなく、だからこそ?ニッチなwww思考実験と同時に”時空のローカリティ≒国家の成り立ち”の検証が必要なのでしょう。「肉体と地霊の実践惰性態」と「リンクされた私の輪郭」の間で、どうしようもなくリアルな自己と日常が引き裂かれてしまわないように……。
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このインタビューで興味深かった点を挙げるとすれば……
その1、……1970年以後の能勢さんの活動は全て「サイボーグ論」のコンセプトの検証のための実験。「ぼくの中の考え方としては、それを書いて始まったんじゃなくて、あれが終わりみたいな感じなんですよ(p172 )」
その2、……情報が生命となるサイボーグの基本構造は時空を超える。「テクノロジーというのは、対象を無化するんですよね(p173)」基本構造はローカリティや時代に依存しない。
その3、……抽象的なコンセプトだけではカウンター・カルチャーではない。その後の(具体的な)日々の”生き方”がカウンター・カルチャーのベクトルを決める。「具体的なことをやっているのがカウンター・カルチャー」「ヒッピーが”生き方”ならば同様に映画製作も含めた”生き方”もカウンター・カルチャー(p180)」
その4、……エクスパンデット・シネマの霊性とは新陳代謝するスペクタクル。「時空を超えた非言語の、生物と機械のコミュニケーション、テレパシー、パラクレート」「太古からの叡智にテレパシー的にリンクすることで”気づき”に目覚め、物事を成し遂げてきた歴史があるから、人間が今日まで生き延びてこれた…(p182)」
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1974のペパーランド開店当時から「”思考のフロセスから生まれる新たな実在”の探求としての拡張映画(バックミンスター・フラー)」をたくさん観させていただきました。それは、メジャーシーンで消費されてゆく映画とは全く違う世界の、映像の可能性を拠り所とし、まさに知覚のエクスパンドを観客に要求するフィルム群でした。
また、そこで掲示されたコンセプトやスタイルは時代とともに消費構造に取り込まれ、拡散されてゆきます。
例えば、スタン・ブラッケージの「犬・星・人」シリウス星人、ケネス・アンガーの「ルシファー・ライジング」のエジプト、アリスター・クローリーやG.I.グルジェフ…に流れるシリウス信仰(星辰)は、のちにトランス・パーソナル・セラピーからスピチチュアル系のアイコンとして消費されてゆきました。
1977~78年ごろ、関西フォーク~春一番コンサート系に憧れてギターを弾いていた時代、その系列のシンガーがコンピューター導入反対のイベントで歌う、との情報が入ってきました。市役所にコンピューターが入ると職を失う人が出るからという理由でした……。
しかし世界的には……クラフト・ワーク、タンジェリン・ドリーム、YMO、DEVO、ロンドンパンク、ノーニューヨークとアンビエント…音楽の後に時代が着いてゆくのを体感していました。……そんな中で「コンピューター導入反対のコンサート」はどうしようもなく時代錯誤に思えたものでした。
そして、80年代初頭、PC98に音響カプラーを繋ぎFTU(ファイル・トランス・ユーティリティ)で電話回線で送ったファイルをカセットテープでセーブする……、そんな事をやっていた頃、岡山の両備システムズのイベントで伊勢雄さんがパソコン関係の講演をするとのことで、資料作りのお手伝いをさせていただきました。
Keynoteもpower pointない時代、4x5にカットしたリスフィルムで撮影した写植を全紙にプリントしたパネルを使っての講演でした。岡山の丸善書店で行われた講演会で「将来パソコンは通信機器になる…」との話に、その時は私もまだ実感がわかなかったのを思い出します。
80年代中頃だったでしょうか?70年代によく聴いたブルースコバーンの肩書きが「ミュージシャン、アクティビスト(政治運動家)」となっているのにも違和感を覚えました。表現の基本構造とは、自分の「思い」を伝えて周りを変えようとするものではなく、表現することで表現者自らを更新するためのもののはず(要出典www)。……表現の手段化はその自由度との引き換えを、知らず知らずのうちにしてしまうからです。
「テクノロジーがもたらす、実践惰性態に飲み込まれない、ギリギリの私の輪郭(p174)」を描くことを全ての表現が目指しているのならば、「将来パソコンは通信機器になる…」という言い回しは、相似律的な予測のもと、それがサイボーグの基本構造であると仮定していたからの言葉だと思います。そしてそこには、岡大紛争は”表現”闘争だったということも関係しているのでしょう。”ギリギリの私の輪郭”を保ちながら常に世界と繋がった存在、HAL2000からブレードランナーそしてアバター魂の木…(最近のエンターテイメントではMARBELエージェント・オブ・シールド) 。
そして「誰もがやがて来る明日の前で、一瞬のたじろぎと不安に怯えながらも”今”に居直って無限の方向へ足を踏み出している」”共同性の地平を求めて”を同世代の確認映画にしたいと語った後で、こう結んでいる、(1976年「ムービン・オン」”アンダーグラウンド映画と私の関わり 下”より)
日常性の中に昇華してゆくギリギリの私の輪郭!断念と開き直りの後、日常生活に立ち現れるまさしく宗教的体験のような記述が、表現が作者を変えてゆく過程を表した重層的ドキュメントとなっていました。
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能勢さんが自然派ヒッピーに向かわなかったのは、冷静に機械電子文明の未来を見つめ、グルーバル・ビレッジ(地球村文化)のシステムをサイバネティクスとサルトルの中に見たからだと思います、それは「サイボーグ論」1970.10の3か月前に発行された「CYBORG→BIBORG→METABORG 試論〈サイボーグ論序説〉」の中にも垣間見えます。
以下「スペクタクル能勢伊勢雄1968-2004」カタログ掲載のものからの抜書き…
「サイボーグ空間においては、他者と個が加工物を通じて一つの生命系をメタボリックに形成する(p20)」
「サイボーグは他者の所有を、限られたクローズド系列より、抽象的インフォメーション量として(抽象性の特質において)他者の所有の意味を略奪し、個の接続素子システムにより、接続権と拒否権により所有という概念のエントロピーは無限になる(p20)」
「加工された物質の意思方向と思想性を、物質面と存在との関わりの中から時差(遷移の時間)をゼロに近づけるように、サーボシステムが組み込まれ、(プロセスとしての)生産と消費のまったくない系が、素子単位の思想性を乗り越え、物質がニンマリと人間に囁きかける。
バイオロジー化がなされた社会そのものの存在(サイボーグ)は、バイオロジカル・トランスフォーメーションにより、スタティックな科学視座から非線形性を帯びた、そしてリーマン空間まで行き着く社会生命系の根源的変革を可能にするのである(イタダキマス…カクナヨ!)
今までのシステムに於いて物質からの疎外としての唯物的契機そのものの合力を変革しなければならないのだが、この実践がずり落ちないように注意しなければならない。
オートマトンの伝達方法としての物理的論理性のみの、それを任せるとその悲劇(物理的論理性と感性との相克)がまさに起こる。
サイボーグ化することにより、システムの生産性と自律性を損なわずにアキュムレートでき、問題は解決する。(p21)」
抜書き終わり
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カウンター・カルチャー≒サイボーグが「物理的論理性と感性との相克」を救う、とゆうところなど「具体的なことをやっているのがカウンター・カルチャー」の根拠とも思えます。
また「物質がニンマリと人間に囁きかける」「この実践がずり落ちないように注意しなければならない」などの記述は、後に「打ち込みの音楽に一番人間性を感じる」、と言った(能勢さんも編集に携わっていた)ロックマガジン編集長阿木譲の感性に繋がっているのだと思います。
京都国際映画祭2017で『共同性の地平を求めて –荻原勝ドキュメント 68/75-』上映と同時に行われたトークイベントでの締めくくりの言葉
「どんな状況になろうが、人間は人に声をかけてしまう。どんなにひどい状態で孤立しようが、貧困に喘ごうが、言葉を発せることが神秘的。それが最後の救いだと思う」
https://2017.kiff.kyoto.jp/news/detail/115
これこそ、能勢さんが黒歴史wwwと語る中学時代の折伏の経験と、「学生闘争の渦中で”映画を作る暗黙の了解”が壊れていた」「大学紛争」状況、この2つの要因からの言葉だと思います。そして、
「それを書いて始まったんじゃなくて、あれが終わりみたいな感じ」にネオテニー(neoteny)を重ねて見てしまうのは私だけでしょうか…?
20210621夏至、南伊豆にて、
藤原重利
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