デジタルvs人間という構図に思うこと
こんにちは。中尾と申します。私は某企業の研究所でコンピュータサイエンス関係の研究に従事しています。学生時代は「情報技術が社会にどのように受け入れられるのか」をインタビュー調査などで明らかにしていました。科学技術社会論(Science, Technology and Society,略してSTS)と呼ばれる人文社会学系の分野です。
自分の専門性も相まって、人とテクノロジーがどのように力を及ぼしあうかには非常に興味があり、研究しています。その中で、最近タイトルに挙げているようなことが気になっています。(写真は等々力渓谷です。)
人間中心のデジタル化
情報化社会とかデジタル化社会といった言葉が広がるにつれて、どのように社会をデジタル化していくかについても色々な試みがなされてきました。中でも、人間中心のイノベーション、Human-centered design/人間中心設計などのキーワードはこうした試みの最も古典的なアプローチです。
この概念は、表面的には、人間という存在は固定化して変わらないものだ、という前提に立ち、人間の要望を良く調べて使いやすいものを設計することで効果的に人をサポートできるテクノロジーが作れる、という立場です。
こうしたデザインの流れが出てきた経緯としては、80年代、90年代ぐらいまでの工業製品のデザインというものが全く直感的なものではなく、エンジニアが技術的に可能なことの積み重ねを行うという目線で作ったものが大半であったことへの反省があります。要するに、ユーザーのニーズを無視した製品がであふれていた時代があったということです。(例えば、ドナルド・ノーマン『誰のためのデザイン?-認知科学者のデザイン言論』といった本はこうした状態への典型的な批判となっています。)例えば、90年代のコンピューターには今では考えられないような辞書なみの分厚い使用説明書がついてきていました。
そこで人間中心の設計では、対象者の分析、問題の特定、プロトタイプ作成、その評価を通じたサイクルを作り、人間を起点とした技術開発が行えるような枠組み作りが行われました。この成果はISOでの標準化などにつながっています。
デジタルを中心とした変革
昔は技術偏重な世の中だったわけですが、反面、2021年現在ではipodからiphoneへというapple製品の系譜に代表されるような、デバイスのUI/UXを直感的に設計することが一般的になっています。その中で、これまでの流れとは逆に、やはり設計の仕方ではなくテクノロジー自体が差別化要因になる、という動きが社会を席巻しているように思われます。
テクノロジーの業界では各時代でそれぞれのキーワードがありますが、近年だとBig data, AI, VR / ARなどの技術・分野が順番に注目されているようです。これは日本に限ったものというよりかは米国西海岸での流行を反映したものなのかもしれません。
日本は(特にアカデミックな界隈では)アルゴリズム開発やデバイス開発などのテクノロジーでプレゼンスを示すことが、概念的なデザイン研究を国際的な場で行うよりも得意な国です。これは端的に、英語だけですべての概念を表現しなければならない人文社会的な研究よりも、コード、数式、モノ自体で説明することも可能なテクノロジーの方が言語の障壁を超えやすい、ということが大きいようです。そういう流れもあって、日本ではテクノロジーを起点とした議論は比較的受け入れられやすいのではないかと思います。(半面、ヨーロッパではデザインの文脈などでの抽象的な議論が受け入れられやすい印象です。GDPRのようなデータ法制でGAFAに立ち向かおうとする大きな主体はヨーロッパだといっていいでしょう。)
そんな中、メディアや書籍では技術を中心に世の中が変わるという言説がよく取り上げられます。過去と未来を差別化する要因としてテクノロジーはとても分かりやすいというのが一因です。例えば、先日研究者の落合陽一氏が「デジタル中心の人間社会」という言葉で表現した記事を見かけましたが、こうした記事の思想はかなりこうした流れに近いものです。もちろんそのほかにも雑誌の特集、書籍などAIやVRなどのテクノロジーが世の中をかえていくという内容のものは枚挙に暇がありません。
この、技術を中心に据える言説は一見過去への後退にも見えるのですが、特に日本においては一定の意味があると私は考えています。なぜなら、日本は社会的な規範が強すぎる社会だからです。卑近な例でいえば、会社で上司より先に帰りずらい、学校で合理性に欠ける校則が存続し続ける、雇用における男女の格差が諸外国より大きい、などといったことが日本において過去の社会規範の変わりにくさを象徴しています。こうした傾向がある理由は、高齢化によって割合的に過去の規範に親しんだ人口の方が若い人間よりも多くなっている、本音と建前の文化によって正面切って批判することが西洋の国々より多くないなど様々です。こうした流れを変えるためにテクノロジーを称揚しやすいという風潮を逆手にとることは合理的です。人間社会の基本的な成分は基本的に人間や、人間が感じ取る環境であり、デジタルが自らの意見を主張し始めることはなく、従ってデジタルが真に人間世界の価値の中心に行くことはありません。しかし、規範を打ち破って変えていく力を持たせようとするとデジタルを考えの中心に据える、というのは合理的な考え方にも感じられます。
人間vsデジタルの二項対立を超えた設計
人間が中心か、デジタルが中心か、議論の抽象度を下げると二元論に落ちがちなのですが、実際はそのどちらでもない、というのが技術哲学や科学技術社会論の知見から明らかになっていることです。この記事で私が言いたいのは、二元論的な言説を受け取ったときに人々がその二元論自体を批判的にみるようになるべきだということです。
テクノロジーが生まれるとテクノロジーによって人間の行動様式も変わる、それに伴って今までなかったニ―ズが生まれる、それによって新たな技術が生まれる、あるいは技術が不要になる、そういう相互作用を通じて人と技術の関係は発展しています。従って、人間中心、技術中心といった二元論は本来的に誤りです。我々はそうした二元論に陥らず社会の中のテクノロジーの意味を注視する視点を持つ必要があります。
付け加えれば実のところ、人間中心を謳う考え方の中でも、人間の方も変容していくという思想は述べられていますし、技術を中心に考えるべきという論者も、基本的にはユーザーの存在を無視して技術を作っているわけではない場合が多いです。従って二元論的に見えるのは要約された議論の中で細かい部分が捨象されていった結果に他なりません。先に紹介した議論も細かく見ていくと人と技術の相互作用のことを何らかの形で扱っています。
技術と人間の相互作用を見つめるべきである、という例として、例えば、コロナ対策のための接触者判定アプリが挙げられます。こうしたアプリは各国で生まれていますが、人の行動をトレースすることは人を管理することにつながるため、その監視社会と感染防止のトレードオフは注意深く社会で検討される必要があります。この問題が顕在化した例として、先日、シンガポールでコロナの接触者追跡用のアプリが犯罪捜査に使うことを可能にされた事例があり、多くの非難が寄せられていました。
今あたらしく出てきているテレワークを対象にしたサービスについても、技術の中に社会的な規範を内包してしまうことによって逆に社会に影響を与えてしまう、ということをよく考えるべき事例は存在します。例えば、日本には「承認のための社用印を傾けることでお辞儀を表す、偉い人ほどお辞儀の角度を緩めることができる」という奇妙なローカルルールが一部業界(銀行など)に存在していたらしいのですが、この慣習を電子押印のシステムに実装した「判子お辞儀機能」が電子押印のシステム上に実装されるというニュースが先日流れていました。
これはちょっと笑えるようで笑えない話ですが、例えば、判子の角度を傾ける機能がついた電子押印のシステムはどのような影響を社会に及ぼすかを簡単に考えてみることはできます。「判子お辞儀機能」が実装されることで、今までそのような慣習がなかった業界にも判子を傾けるという文化が逆輸入されるかもしれません。もし仮に、「判子お辞儀機能」がついた電子押印システムを使う人が全員押印の角度を調節する社会になったら、果たしてどれだけの人の時間が失われるでしょうか。また、仮に判子を傾ける機能が電子押印業界のデファクトになったとすると、「判子お辞儀機能」をつけていないシステムは使われないということになってしまいます。そうすると、電子押印のシステムを作る会社は判子を傾ける機能を必ずつけなければならなくなるかもしれません。そうなるともちろん、やらなくてもいい仕事が社会に増えることになるでしょう。そうしたことを考えると判子の角度を傾けるという機能が要望されたとしても、それに応えるべきではない、という答えが得られるのではないかと思います。
例があまりにも奇妙だったかもしれませんが、このようにして技術に実装すべきではない社会的な規範というのは多くあります。技術と人間社会の間のインタラクションを予想して考えてみて、技術を設計すべきだと思いますし、技術で可能なことを考えて社会的な制度も考えていくべきだというのは間違いないでしょう。
デジタルvs人間、という構図がもたらすものはテクノロジーと人との接点の単純化、メッセージの強化なのですが、実際はそのような二項対立が存在するわけではありません。そのことをより多くの人が自覚して、どのように社会が設計されるべきか、どのように技術が設計されるべきかがしっかり考えられる視点を持つようになって欲しいと願っています。
また、同時に人々は自らの行動・要望が何を生み出すかを考えて行動すべきだ、ということが自覚される社会になってほしいと切に願っています。