【インテルの上層部を知ろう!②】日本一ダリオ・バッチンに詳しい記事
こんにちは!TORAです🐯
今回は「インテルの上層部を知ろう!」記事の第二弾!
ダリオ・バッチンの情報をまとめてみました。
第一弾はこちら。
なんと!今回はバッチンフォーカス回!!!
というのも前回取り上げたアントネッロ、アウジリオ、マロッタらと比べるとマジでマジで情報がない上に誤情報も散見。
だもんでムキになって調べた結果、ボリュームマシマシになってしまいました。
たぶん、日本で一番バッチンに詳しい記事です
それではいってみよう!
●Dario Baccin(ダリオ・バッチン)
・見た目
ダルミアン系譜のガチイケメン。
・現役職
ASD(アシスタント・スポーツ・ディレクター)。
つまり、SDであるアウリジオの右腕に位置します。
・生年月日
1976年8月27日生まれ(47歳)。
後述しますが、34歳で現役生活に別れを告げています。
●選手キャリア-水色のセリエA
なんと育ちはユヴェントスのユースチーム。トップデビューは叶いませんでしたが、トップチームで練習することはあったそうです。
ポジションは左右を問わないサイドプレーヤー。本業は右っぽいですが、僅かに残っている映像を確認すると、たしかに左でプレーしている場合もあるので、マジもんの左右どっちも、かと。DFとしてもMFとしてもプレー可能。
他、今でいうインサイドハーフ的なポジションでも起用されていた超絶マルチプレーヤーです。IHのやつはお仕事内容が今のソレとは違うでしょうけど。
プロデビューは20歳。1996-97シーズン、ユヴェントスからセリエBのチェゼーナにローン移籍し、28試合に出場とポジションを掴みました。
翌シーズンはセリエBキエーボ・ヴェローナに戦いの場を移します。プロ初ゴールを決めるも出場時間は伸びず、1年後テルナーナに完全移籍。2シーズン、安定的にプレーし評価を高めました。これがターニングポイントに。
2000-01シーズン、ユヴェントスと共同保有でナポリに移籍。ユヴェントスは半分ですが買い戻す形となりました。
24歳でセリエAの扉を開けると、早速の開幕戦ナポリvsユヴェントス戦でデビュー。
ちょっときな臭いというか、大人の事情感あるデビューな気も。笑
事実、バッチンは2節vsインテル戦後からしばらくピッチに立つことができませんでした。
ちなみに2節はインテルが3-1で勝利しています。その時のメンバーは以下の通り。エモい!
しかし、10節から再び出場機会を勝ち取ると、続く11節では待望のセリエA初ゴール。これがかなりのグッドゴールでして共有させて頂きます。
画質が恐ろしく悪いので、背番号4のイケメン(=バッチン)を追っかけてください。
ゴールは年間通してこの一撃のみでしたが、以降はほとんどの試合に出場し、成功と評価できるデビューシーズンだったと思います。
そういえば上記動画でエゲツないFK決めてるのは、後にミランで活躍するあのヤンクロフスキです。ナポリでは同年代、類似ポジションでバチバチに火花を散らしていました。知らんけど。
●選手キャリア-流浪の末に辿り着く
素晴らしいAデビューシーズンを過ごしたバッチンでしたがクラブは低空飛行。シーズン終了後、ナポリはセリエBに降格してしまいます。
せっかくAの舞台にステップアップしたバッチンでしたが出戻りに。ここから苦しい旅が始まります。
ナポリ2年目、バッチンは変わらずスタメンの座を確保。チームを支えます。
9節のチッタデッラ戦ではシーズン初ゴール。これがかなりのゴラッソでして共有させて頂きます。
画質がさらに恐ろしく悪いので、1:24まで飛ばして見てください。右サイドを駆け上がる男前の韋駄天がバッチンです。
試合後のインタビューでは彼の人柄が実によく現れていました。
-勝利、そしてゴールを決めておめでとう。
「ありがとう。”ジジ”デ・カーニオ監督とチームメイトに捧げる。このゴールはロッカールーム全員のためのものだ」
-とんでもないゴールだったね。マラドーナのようだった。
「たしかに”形”はそうかもね(笑)マラドーナはボールをネットに入れるために蹴るだろうけど、僕はクロスを入れるために蹴ったんだ(笑)」
-ラッキーだったの?
「誰かこのボールをネットに届けてくれ!と願いながら蹴ったよ。けど、ボールは奇妙な軌道を描いたんだ。そしてバーとGKに当たってゴールに入った。ラッキーだったよ(笑)」
インタビュー記事は彼をこう評しています。
『誠実で、正直で、忠実なキャプテン』
さらにクラブ内の地位を固めた感のあるバッチンでしたが、冬のメルカートで今をときめくサウジアラビアのアル・イテハドに移籍します。
https://x.com/ittihad_en/status/1666156267616759808?s=20
当時としては非常に非常に珍しい移籍先。
この背景は情報が少なく、というか皆無に等しく調べきれませんでしたが、主な理由は2点あると考えます。
ⅰ)当時のナポリの深刻な財政難
大前提として押さえておく必要があるでしょう。
ご存じの方も多いでしょうがナポリはこの後の2004年に破産宣告でセリエCからのリスタートをしています。
しかしながら、”クラブの財政難でバッチンを売らなければならなかった”ということではなかったかもしれません。
というのも、「バッチンが高い移籍金では売れていない=保持しようと思えばできたと思うから」です笑
真偽は怪しいですが、なんとか確認できる定量的な記録を参照すると、アル・イテハドが支払った額は(ユーロ換算で)152万ユーロ。
翌年、破産直前のナポリはヤンクロフスキをウディネーゼに350万ユーロで売ってますから、この数字を信じるなら現代のような拒否できないメガオファーがあったわけではなさそうです。
まぁ、上記数字は鵜呑みにできませんからもっと高く売れたかもですし、バッチンのお給料が良くてむしろ彼が行きたかったのかもしれませんね。真相は闇の中。
ⅱ)師弟関係
そこそこ書いといてなんですが、ぶっちゃけ ⅰ)はどうでもよくて笑
記事としてインテリスティに共有したいのはこちら。
アル・イテハドはちょうど2002年1月にイタリアのクックレドゥさん(選手時代はユヴェントスで300試合出場したオールラウンダー)が監督就任しています。
彼はかつてユヴェントスユースでバッチンを指導しており、さらにテルテーナでもわずかながら(二カ月程度で解任)監督と選手の関係だったので、この縁が強いのでは?と妄想しております。
で、これまた情報が全くなくて何があったかはクリアではありませんが、どうやら金銭面で彼らとクラブは揉めたっぽく、バッチンは出場なし。クックレドゥさんもおそらく3試合しか指揮していないっぽいです(23試合説もアリ)。
兎にも角にもアル・イテハド移籍は大失敗。1年を棒に振りました。
バッチンはその後、イタリアに戻ります。アンコーナ、ターラント、アスコリの3クラブを渡り歩くもナポリでのパフォーマンスを失ってしまったのか、定位置を掴むことはできませんでした。
そして、2004−05シーズンにセリエC1リミニに移籍。舞台こそ以前よりもスポットライトが当たりませんが、バッチンの選手時代における故郷となるクラブです。
移籍後、即信頼を勝ち取ったバッチン。ガツガツ試合に出て、クラブのセリエB昇格を助けました。1970年代以降となるB昇格で街はとんでもない盛り上がりだったそうです。
で、この後ですよ。1年飛ばした2006-07シーズン。バッチンは僕らのサミール・ハンダノヴィッチとチームメイトになってるんですよね。
ご存じの方も多いと思いますが、ハンダノ神は2004年にウディネーゼに移籍しますが、当時はWCCFでお世話になった方が多いであろうモルガン・デ・サンクティスが不動の地位を築いておりましてローンの武者修行に出されていました。神にも下積みがあったんです。
トレヴィーゾとラツィオで苦い思いをした後、リミニに来てようやくプロとして1シーズン絶対的なGKとして活躍。これをきっかけにウディネーゼに帰還し、ポジションを射止めています。
バッチンとハンダノヴィッチがチームメイトだった。
しかも両者ゴリゴリに出場しており、”文字通り”一緒にプレーしている。
これ。
これを書きたいが為にここまで頑張りましたw
バッチンもまた2006-07シーズンを終えて移籍しています。3年間の在籍で出場した試合は99試合。キャリアの中で最もユニフォームを汚しました。
次なる戦場はトレヴィーゾ。ここでも2シーズン、安定的な出場でクラブを支え、再びリミニに戻りました。
そして、このシーズン。
奇しくもインテルが3冠した2009-10がバッチンの現役最終シーズンとなりました。
リミニはレガ・プロ・プリマ(旧セリエC1)でジローネBの4位となりプレーオフに進むも準決勝でヴェローナに惜敗。
リミニは翌シーズンから財政難を理由にクラブ名を変えて再出発しますが、その船にバッチンは乗っていませんでした。
乗らなかったのか、乗れなかったのか。はたまた、その両方か。
彼の選手としての物語はここで幕を閉じました。
●ディレクターキャリア-頭角はすぐに
引退の寂しさなどないのか、むしろ気を晴らすためなのか。
バッチンは引退後、ノータイムでスポーツディレクターの資格を目指し、2010年12月にコベルチャーノを卒業しています。
早速仕事も舞い込みまして、ジョルジョ・ペリネッティSDの慧眼に止まり、2011年2月からシエナのスカウトを務めます。
ペリネッティはかなり味があるお方でして、おじさん世代はご存じの方も少なくないと思います。
超簡単に説明すると、21歳でローマのユース部門の責任者に就き、キャリアを重ね、約10年後にSDにステップアップします。
この後、各クラブを流離うので彼の代表クラブはローマになるんでしょうが、西暦にして1972〜1986年とちょっと昔の話であることと、この後の出来事が濃いのであまりローマの印象が薄いのがなんとも。
”この後の出来事”というのは、ナポリのSDに就き、マラドーナのドーピング検査の結果を彼本人に伝える役を担ったことを指します。
ぺリネッティはその時のマラドーナの様子を「左の腰に手をやり、一生忘れない苦笑いを浮かべた」と語りました。
さて、そんなぺリネッティさんですが、若い宝石をスカウトする能力の高さが折り紙付きで、有名どころで言えばシエナ後の勤務地となったパレルモでのお仕事。
2012年にアルゼンチンでまだボーイのディバラを引き上げています。
尚、バッチンもペリネッティさんと一緒にパレルモへやってきました。テクニカルエリアのディレクターとユース部門の責任者に就任。
バッチンが送り出した代表的な選手は、
現ヴェネツィアのルカ・フィオルディリーノ
現カリアリ、名前コワモテのエドアルド・ゴルダニガ
なんだかグミが食べたくなるアントニーノ・ラ・グミーナ
などなど。
うん。
かなり渋いですね。
●ディレクターキャリア-そしてインテルへ
パレルモで4年間を過ごした後、2017年7月1日付でインテルのアシスタントスポーツディレクターに就任しました。
インエルではスポーツディレクター、つまりチーフであるピエロ・アウジリオの直属の部下となり、主に若手選手関連を担当し、移籍に関してマロッタやアウリジオとあーでもないこーでもないのやりとりをすることに。
度々南米に飛んでおり、青い宝石をチェックしています。若手を見る目はぺリネッティさんに鍛えてもらったんですかね?
僕たちのラウティもスカウティングはバッチン。元々唾を付けていた中で(バッチンの配下たちが先ずはリストアップをするはず)、獲得が決定打となったのが2018年2月16日に行われたラシンvsラヌース。結果は3-1。
得点こそなかったものの、献身的で創造的なプレーに加え、アウグスト・ソラーリというなんだかめちゃくちゃインテルにいそうな選手へのアシストが決め手となった!…という報道が多いです。
直近だとカルロス・アルカラス、フリアン・アルバレスも(勿論事前のスカウティングがあってだけど)バッチンが現地で試合を観戦し、レポートを提出したことで、本格的なGOに動かしたと言われています。獲得できていないんですけどね!
なんだかこう書くとめっちゃ優秀に見えますが「打率どうなの?」というツッコミもちらほら見ます。
というのも南米にしょっちゅう言ってる割に結局、具体的に名前が挙がる割合が少ないんじゃない?、的な(飛ばしの名前じゃなくて本気で動くという意味)。上記の二人なんて挙句掻っ攫われてますからね!
特にアルゼンチンに行く度に「ラウティ2世は!?」と言われますが獲得はいつになるでしょうか。
本記事執筆時点の11月頭にも南米に行っており、コパ・リベルタドーレス決勝、ボカ・ジュニオルスvsフルミネンセをチェックしています。
他、アルゼンチンやウルグアイも回るそうですがはたしてどうなるでしょうか。
ラウティ2世とは言わずとも南米産の宝石をそろそろ”ピッチで”見たいですねー!個人的にはサムエルさんみたいなDFが出てきてほしい!
これからも頼むよ!バッチン!
超がんばれ⚫️🔵
最後までご覧頂きましてありがとうございました🐯
あ、ガビゴルさんは2016年夏加入なのでセーフです。バッチンのせいじゃないです笑