[小説] 羊飼いの島
踏まれた砂は身を寄せ合って鳴いていた。秋の終わりの風は冷たい。浜辺の先には影法師がひとつ立っていて、それに向かってわたしは歩いた。影法師の隣に立つと、わたしはピーコートのポケットからげっ歯類の頭蓋骨に似た錆びた金具を取り出して、それを影法師に近づけてやった。
「どう?」
影法師はこちらを向いて手をのばしその小さな金属に触れた。撫で回してから自分の上に載せ、身体を揺すって、うまく合わない、でもありがとうとわたしに伝えた。影法師は手足が長くて背が高い。肩まで二メートルほどある。その肩の上には瘤になった首の残りがあるだけで頭がない。影法師が瘤から降ろした金具を受け取って、わたしはそれを砂の上に落とした。
わたしは影法師と連れ立って池に向かった。商店や郵便局がある通りの角を曲がった先でほとんど葉が落ちた林に入った。木々が作るおぼろな日陰、湿った枯葉、折れて落ちる枝。ほどなく辿りついた池には薄い氷が浮かんでいた。ほとりにしゃがんでそっと氷を撫でた。指先の温度が下がる。氷を左右に揺らすとそれに合わせて隣にいる影法師がもじもじしたので、わたしは少し笑ってしまった。
割れた氷から手を離して立ち上がった。池を囲む木々の向こうに上り斜面が見える。低い稜線が島の輪郭を描いていた。その丘陵の裏側は断崖になって海に面している。
「生きていたころは何を見ていたの?」
わたしが訊ねると影法師は両手を横に広げたり胸元から正面へ伸ばしたりしながら、とてもたくさんのものを、とても遠くのものを、と応えた。
「ぜんぜん具体的じゃないや」
そう言うと影法師はまたもじもじした。
池は島のほぼ中心にある。島の南側には民家が建ち並んでいてわたしの家もその一帯にあるけれど、帰るにはまだ早かったから、池からすこし東へ歩いた。左手にある稜線は徐々に高くなっていき、島で唯一の山に繋がる。わたしたちは山道の入口を見つけて頂上へ向かった。隣の島を見たかった。断崖から浅瀬で繋がった小さな無人島がこの島の北側にある。無人島の中心には窪地があるけれど、大きな木々が覆いつくしているから隠れていて見えない。山頂に着いたわたしはその島と隠れた窪地を眺めた。左を向くと池が見えた。二つの死んだ眼が空を見ていると思った。風があたって身体がほんの少しずつ冷えていった。
島の子たちが下校してくる前にわたしは家に帰った。前にいた学校の子たちより雰囲気がいい気がするけど、なんとなく居心地が悪いから会うのを避けている。いつものように影法師とは途中で別れた。机にむかって数学の授業の動画を観ている間、ずっとイヤホンをつけていた。西にある採掘場からは夜でも音が聞こえてくる。島の地下はどこもおそろしく硬い岩盤で掘り進めることができないが、西には昔から大きな割れ目があって、その場所だけは採掘できるのだ。そこから採れる物はエネルギー資源として価値が高いという。採掘にも加工にも特殊な機械がいるらしく、定期的に研究者が島に訪れていて、わたしも何度か目にしたことがあった。祖父はその採掘場そばの発電所で働いている。貝楼諸島の電力供給に一役買っていると言っていた。
ドアがノックされる音に気づいてわたしはイヤホンを外した。ドアの外に祖母が立っていて受話器を渡してくれた。母からの電話だった。
二ヶ月前にわたしはこの島に来て、以来母の実家で過ごしている。電話では同じやり取りしかしていない。大丈夫だよとわたしは言い、まとまった休みが取れたら会いに行くからと母が言う。本当に会いたいなんて思っているんだろうか。教室の割れた窓ガラスとそこに付いたわたしの血を思い出す。夏になってもわたしは長袖を着て過ごすのだろう。
「どう?」
わたしは去年の夏に被っていたキャップを渡した。影法師はいつものように手でたしかめて首に載せ、悪くない、でもすこし合わない感じがすると応えた。ピーコートには不似合いだけど、わたしは返されたキャップをかぶった。
今日は島の東へ向かうと決めていた。民家がある通りを進んで、昨日影法師が立っていた浜辺が家々の隙間から覗くのを右手にわたしは歩いていった。アスファルトが途切れた先の土の道を進んでいくと足元が草地に変わる。そこから先は草原になっていて、遠巻きに羊の群れが歩いていた。羊たちは島民に近寄らず、島民もまた羊たちに近寄らなかった。協定が交わされているかのようだった。群れから離れた一匹が立ち止まってこちらを見ていた。わたしと影法師を見ていたのかもしれない。わたしも立ち止まってその羊を見返した。突然、この羊の頭を影法師に渡したらいいんだと思った。それは影法師にも羊にも良いことなんだ、物事のあるべき形なんだと思って、羊の方へ歩み寄っていった。影法師は止めようと前に出たけどわたしは衝動に逆らえなくて脇をすり抜けてどんどん近づいて、本来なら逃げる距離に入っても羊は動かずにじっと待っていてわたしたちはお互いを受け入れている、脈拍が同期するのがわかる。でも小さなカッターすら持っていないことに気がついて、これじゃ頭を切り離せないという考えがよぎった時、羊は草を蹴って駆け出し、その機会は失われてしまった。衝動はぬぐい去られ、残ったのは困惑だけだった。さっきまで自分を支配していたものが内から湧き出したのか、外から入り込んできたのかがわからなかった。落ち着いた頃にはどこにも羊は見えなかった。
方向を変えてわたしたちは草原を歩き続け、島の東端ほど近くの巨岩にたどり着いた。赤く巨大な岩が、草原に切れ目を入れるように横たわっている。垂直に近い角度でそそり立ったその表面は指を切ってしまいそうなほど荒れていて、誰もここに近づかない。岩山を囲む草は他よりずっと背が高かった。羊たちも近づかないのだろう。ふと、剥がれ落ちた鋭い石が転がっているかもしれないと思いついた。ナイフのように使えるはずだ。今さら手に入れる意味はないと思いつつも、背の高い草をかき分けてようやく手頃な石を拾ったとき、すぐそばに岩の割れ目が見えた。かすかに低い音が聞こえた。絡み合う草を引き抜き、石で土を掻くと、腹這いになってくぐれるほどの大きさの穴が現れた。向こう側に光が見える。わたしは膝をついたままその光について考えた。この巨岩の内側には光が差し込むようなひらけた空間があるのだ。頭をぶつけないように慎重に穴に潜り込んだとき、影法師は手で遮って押し留めようとしたけれど、わたしは無視して向こう側へと進んだ。
めくれ上がった赤い壁は高く、それにもまして長く、吹き抜けの空間を囲んでいた。濁った大きな結晶が規則的に並んで地面を形作っている。ひとつひとつの結晶の表面は平坦で、わたしが大の字で寝そべっても余裕があるほど大きい。わたしは両手の土を払いながらその景色を眺めていた。外からはこの場所は隠されている。だが島での位置を考えれば、内側がこうなっているのは当たり前だった。また音が聞こえた。結晶が大きく欠けた場所があり、風が地下から吹いている。わたしの後ろで影法師はじっと立っていた。音が止まった。
「死体は呼吸をするの?」
わたしが尋ねると影法師は身体を傾けて、わからない、もう自分とは完全に切り離されているから、と応えた。わたしは地下を覗きこみ、足場があることを確認すると、注意深く手をかけて中へと降りた。
地下の土は柔らかかった。結晶が鈍く光を遮っているために中は薄暗かった。わたしはその場に座りこんでじっとしていた。影法師はわたしの斜め上に立っているはずだが、ここからは見えないし気配も感じなかった。そうして座っていると久しぶりに自分が安心しきっているのに気がついた。鼓動が身体を揺らしているのを感じた。見上げると雲が流れていた。
空気が地下の奥へと流れて行った。体が引っ張られるのを感じて、そのときわたしはようやく自分が触れているのがただの結晶や土ではなく、歯であり舌であることを、その感触の生々しさを、自分が巨大な死体の口の中にいることを実感した。この柔らかな地面が急に動いてわたしを飲み込むかもしれないと思ったけれど、なにも起こらなかった。
「生きていたときはこんなに大きな身体だったのに、死んで影だけになったらそんなに縮んでしまうなんてね」
影法師からの返事はなかった。足元から奥へと続く空間を、濃くなっていく暗がりを見つめた。そうしながら、島に来る前のことを、島に来た後のことをずっと考えていた。間違っていることや正しいことを。だからわたしは自分から喉の奥へ降りていくことに決めた。影法師は付いてこなかったしキャップはいつの間にかなくなっていた。
土とも岩ともつかない死肉の通路は闇に近かったが、壁の所々がほのかに発光しており、道のりは緩やかな下りの螺旋を描いていた。際限なく下り続ける足取りは長い歩みを進めるうち、いつからか上昇に切り替わっていた。上り道なのに地下へと進んでいる。この巨大な喉は、途中で捻れて上下が反転しているのだ。わたしは影法師から聞いたことを考えていた。額に穴を開けられてもなお暴れ続け、首を刎ねられて死んだ人喰いの巨人。その頭部が島になったという。胴と四肢は焼き尽くされたが、影だけは残された。自分の死体の最後の断片に影法師は身を寄せている。その思考に応じるように、一歩進むたびにわたしの脳裏に囁き声が響いた。
「死んだ巨人の頭から」「溢れ出た血や肉や」「記憶や感情は」「傷口と海底を繋いで」「下へ下へと長く伸びていき」「喉は道となり」「…………」「……」
どれほど歩いた後か、ようやくわたしは暗闇を抜けて頭を出した。そこはあの巨岩の内側、欠けた歯の隙間だった。周囲は薄暗く、影法師もいなかった。這い上がって立ちあがり、草に隠された穴を探した。違和感があって、穴から外へ出たときに理由がわかった。島が左右反転していた。裏返しの島。影法師と過ごしたわたしには同時にもう一つのことも理解できた。この島はかつて巨人の頭の影だったものだ。失われた頭の影、本当なら影法師の肩の上に載っているはずのものだった。
反転した町並みを歩く影たちは島民に似ていた。見知った顔の島の子を見かけた。動物は一匹も見なかったが、島民一人一人に対応する影がいるようだった。死んだ巨人は自分の顔の上にいる人々をここに再現して囚えているのだろうか。
通りから外れてわたしは砂浜に降りた。浜辺の先には影がひとつ立っていて、それに向かってわたしは歩いた。そのコートと、不似合いな帽子はよく知っている。隣に立ち、わたしは自分と瓜二つの顔を見つめた。まっすぐに見返す目を見て、わたしと彼女の違いはその瞳にしかないことを知った。彼女の瞳孔は横向きに開かれていた。羊の目だった。影法師が羊に近づくわたしを止めようとしたことを、裏返しの草原には羊たちがいなかったことを思い出した。
「あなたはあの羊の影?」
「メェ」
影は答えた。そうだ。
「メェ」
人喰いの死骸は島になってからも人を取り込もうとし続けている。だからわたしたちが代わりに影を渡して島を騙している。人は影にいろいろな意味をつけたから、影を奪われることは災いを呼ぶ。
「メェ」
島に人が増えると羊も増える。だから人間の数と羊の数はいつも同じだ。これは羊飼いがわたしたちと交わした取り決めだ。引き換えにわたしたちを守り世話をする。長い手足で羊飼いはよく働く。ほとんどの人間はそれを知らない。羊飼いが姿を見せた者にだけ話す。
「今までもここに来る人はいたんだね」
「メェ」
表の島に戻った者も、戻らなかった者もいた。
ポケットの中にある石の重みを感じた。石の鋭さと流される血を思った。羊の影はなにも言わず選択を待ち受けていた。わたしは波打ち際を眺めた。この島は薄闇の虚無に囲まれていて、砂浜の先は削ぎ落された絶壁だった。表の島には打ち寄せる波があるのだろう、その動きをなぞって海岸線は揺れ動きながら、島の輪郭を決めかねていた。足元に絶壁が近づいては遠ざかる。わたしは石を手に取って羊の影に差しだした。彼女はそれを受け取って手の上で感触を確かめ、こちらに顔を向けて頷き、コートのポケットにしまった。そしてキャップを脱ぐと、そっとわたしにかぶせてくれた。