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豚の貯金箱
階段を定時に降りていると、1つ上の階からドカドカと降りてくる音が聞こえた。この時間帯、よくあることだ。私はごそごそと社員証を取り出し、退出ドアの前のセンサーにかざしていたら、どこかで見たことのある男が、「よう」とばかりに目配せしてきた。
部署は違うし、仕事で接点もないのに馴れ馴れしい男だと思いながら、「お疲れ様です」と無機質に答える。男はその様子を気に留めず、さも当たり前のように、私の横を歩きながら、しょうもない話を始める。昔どこかで見た竹とんぼのように。くるくると。
日常生活のたわいのないこと。私はほとんど言葉を発せず、馴れ馴れしく話しかけてくる男の顔をマジマジと見ていた。黒いマスクはメッシュっぽい素材だなとか、剃って少し青くなった耳の辺りだとか、蕎麦一束ぐらい身長差があるな、とか。
基本的に私は誰と歩いていようが、右側を歩きたい。左側を歩いていると、反射的に対応できなくて防衛能力が落ちる気がするが、右なら瞬発的に対応できると思ってる。私の右側を歩いてもいいのは、今のところ娘だけーー。そういう話を今まで一緒に歩いたことのある男の人達に話してきたが、この男も自然に私の左側を歩く。ごく自然に。たまたまだろうか。
道が分かれるところで男は唐突に言った。
「豚の貯金箱にせっせと100円玉を貯めてるわ」
そういえば昔、と言ってもつい最近だが、好きだった男も同じセリフを言っていた。「会いたい」という言葉の代わりに使うフレーズ。実際、豚のピンクの貯金箱があるのかどうかは知ったことではないけど、お金や時間、気持ちを毎日貯めて、会うために日々過ごしている、というニュアンスで使っていた言葉。懐かしく、郷里を思い出すようにこみ上げてくるこの感覚はなんだろう。
この帰り道の5分ほど、ずっと日常生活や人との関わりが、「めんどくさい」「つまらない」「飽きた」だのネガティブなワードで埋め尽くし、しょうもない話をしていた男が、せっせと貯めているその愛らしい貯金箱。鍛えた筋肉質の身体と裏腹に、無気力すぎる思想。普段から、ペットボトルや缶ジュースを仕事の合間に買うなんて無駄だといい、「俺は節約家だし、ケチだからな」と言う男が貯めたお金は何に使うのか。色々とアンバランスで図体の大きい男が、ちまちまと100円を小さな貯金箱に入れてる姿を想像すると、あまりにミスマッチな気がして、ふとマスクの下で自分の笑みがこぼれるのがわかった。
「それは、飽きないのね?」
男は1秒ほど視線を動かさずに考えて、
「飽きない。俺のベースだから」
と言った。「それ」と自分で言ったが、何を指しているのか、男が何と解釈したのか曖昧で、しかも一致しているとは限らない。ただ私の遠い記憶が確かなら、そのいっぱいになった空想上の貯金箱は、私と会う時にハンマーで割られた。記憶の中の男と私はそのひとときだけのために、お互いの頭の中の言葉を放流して、無我夢中でお互いの体を貪った。そしてまた、新しく生まれた貯金箱に、「チャリン」とコインが貯まるのだ。
男が言う「俺のベース」とは、どういう意味かはわからない。単なる性欲あるいは性への関心が彼の人生のベースとも捉えられる。ただ、拡大解釈なのかもしれないが、その「ベース」とやらに私が深く関わっているかもしれないと想像してみる。少なくとも、彼のものを包む時に使われる私の唇だけは、関係している気がしてるから。そして、私の唇の所有者は私だ。
どうしてだろう。
胸の奥がすごく温かくて、
でも苦しくて
涙が出そうになる。