コメダ珈琲にて
「なあ、気づいてるか?」
コメダ珈琲で隣に座った男が声をかけてきた。俺の方は一切見ずに。
俺にしか聞こえないくらい、小さい声で。
小さくはあったが、その声には確実に答えなければならない緊張感がみなぎっていた。
俺は面食らいつつ、必死に返事を絞り出した。
「何がですか?」
男は顔色一つ変えず、まるで独り言のように呟いた。その声は低く、どこか人を安らかな気持ちにさせる深い響きに満ちていた。
「俺、Tシャツ、前後ろ逆に着てんだ。」
はあ?何言ってんだこのオッサン。
そう思ってよく見ると、肩の縫合が前寄りにある。確かに、その男はTシャツを前後ろ反対に着ている。
と言っても、そのTシャツは襟首が詰まったタイプだったので、一見してもわからない。タグも見えない。
その男にしても、これといった特徴のない、至って凡庸な体格とファッションの中年男だったので、知り合いや家族以外に注目する人間など皆無だろう。
「本当だ、よく見ると前後ろ反対ですね。」
「だろ?」
男は相変わらずのポーカーフェイス。
はたからみれば、将来に少し不安な若者が、落ち着いた先輩から人生のアドバイスを聞いているようにしか見えないだろう。
「気づいていたか?」
男は再び聞いてきた。
「いや、全然気づいていませんでした。」
「やっぱりか・・・」
残念そうに男は言った。
「いや、迷ったんだ。君に質問しようかどうか。
もし、他人が気づいているのなら、これは恥ずかしいことだ。
せめて、本人としても『気づいていますよ、このあとトイレにいってなおすつもりですよ』という言い訳をしておきたいところだ。
ちなみに現在トイレは使用中だ。
だが、リスクもある。
君が気づいていない場合(実際そうだったわけだが)、私はわざわざ自分の恥ずかしいミスを打ち明けることになる。
こんな時、君が知り合いであればすぐに打ち上げればいい。だが、残念ながら君は赤の他人だ。」
「はあ」
「そして今、私はあることに気づいた。シャツは、前後ろ反対の方が姿勢が整う。
確かに窮屈ではあるが、どうやら一般的なレディメイドの洋服というものは、若干猫背気味に作られているようだ。
だとすればだ、あえて前後ろ反対に切る方が、姿勢のためには理にかなっている可能性がある。」
「はあ」
「このことから、我々は衣服によって猫背気味な身体に矯正されているのではないか?という仮説が成り立つ。」
「だれが?何のために?」
「君は徳川家康を知っているな?」
「あの、江戸幕府を開いた?」
「そう。彼が統治にあたって心がけたことが何か、知っているか?」
「知りません」
「『百姓は生かさず殺さず』だ。彼は年貢を納める養分としてギリギリ持続可能なレベルに貧しくしておくことが、統治を成功させるカギだと見抜いていたのだ。」
「で?」
「君も知っているように、江戸幕府は200年以上続いた。家康は正しかったのだ。
そして、我々は猫背にされている。
猫背になると、どうなる?」
「さあ」
「気分が暗くなるだろう。
不安と緊張が強くなり、やがて視野も狭くなる。
今日明日の自分のことにしかフォーカスしなくなり、変化を恐れ、やがて冒険できなくなる。 最終的に、自由を手放したくなってくるのだ」
「それで?」
「つまりこれが、我々大衆にレディメイドの服を着せる理由なのだ。
反抗させなくして、税金を納める養分としてギリギリ生存可能な状態で生かし続ける。」
「誰が?」
「決まってるだろう。奴ら、だよ」
その時、トイレの扉が開くのが見えた。
「あ、トイレ空きましたよ」
「ん、行ってくる」
俺は男がトイレに入るのを見届けてから、急いで席を移動した。