空っぽな「愛をもっと」
ライフセービングを始めたきっかけと今後の僕。
大学1年生の時、サークルの勧誘会に誘われた。
「焼肉奢るからさ」
初めての一人暮らしで贅沢な食事の誘いは、興味がなくてもいく理由には十分だった。
興味が無いもんだから記憶もなく、焼肉の匂いが充満した先輩の車内で、よく知りもしないレミオロメンの曲の「愛をもっと」のサビだけ歌って先輩に合わせた。
そのしておいた方がキャンパスで会った時に、特に意味も無い「うぃ」とでも言ってくれるだろう。
「サカナクションのネイティブダンサーの方がこんな雨の日には絶対いいのに」
雨が矢継ぎ早に窓を走るのを見ながらこんなことを考えていたのを妙に覚えている。
いきなり体が浮き上がった。
柔らかい衝撃と後頭部を殴られるような衝撃に頭を挟まれて目を開けると、フロントガラスがぶっ壊れていた。僕はシートベルトをつけずに後部座席の真ん中にいたにも、関わらず運転席の後ろに頭をぶつけただけだった。
映画かよと思いながら外に出た。
土砂降りの中あたりを見渡すと、友人は僕の頭にぶつかりまぶたから大量出血、相手方のタクシーの運転手は胸を押さえてた。
目の前で苦しんでいる人がいて、何かできることはないかとは思いつつも「何もできないと思われたくない」「やれることもたかが知れている」と恥ずかしさと恐怖と諦めでただ突っ立っていた。
こんな時に人の目を気にしてどうする。どうするよ。
動けなかった。
今思い返してもずっとモヤモヤしている。
粘着質なガソリンオイルみたいに。
その後、ライフセービングの部活の勧誘を受けた。
「あなたは大切な人を守れますか?」
こんな誘い文句が目に飛び込んできた。
そうして僕はライフセービングクラブに入って、インカレと全日本でそれなりの結果を納め、小さいクラブの代表を今も続けている。
ただこれはエントリーシートに書くための話。
本心は許して欲しかった。
あんな時に自分がどう見えるかを気にしている自分を。
「これをしているから許してくれないか」と自分に立派な理由を持たせたかった。
救う理由が償いだった。
けど今は違う。
ある程度の力を持った今は守れる人は守りたい。
自己陶酔がゼロのような聖人君子ではないが、少ないながらも救うことが今の僕にはできるから。
そのまま消防に就職したけど組織的な不一致もあり、世の中の煩わしさを解消するIT企業に転職した。僕が好きな相手には心地よさを与えたいし、味方でありたい。所属するコミュニティでも同じ話だ。
味方であり心地よさを提供するには繋がりがまず必要だと思っている。特に今みたいな時は。
「血」という文字は、一族の集まりで動物の血を皿に載せて祝祭を行なっていたから、現在でも繋がりの意味を持っている。
家族というのは少々大袈裟だが、一緒にいろんなことして知り合いでいよう。
好きな人が働いている業界は好きになるし、好きな人のステータスも好みも親近感が湧く。こんな感じの世界の好きになりかたが僕は好きだ。
一緒に祭りでもご飯でも会うだけでも一緒にしよう。
世の中のステータスとか気にしないで、肩なんかも組んじゃってさ。楽しいと思う。
そうやって繋がりを増やしたら、適当に口ずさんだあの時の「愛をもっと」が自分なりの意味を持ってくれるだろう。
※この文章は、山田ズーニーさんの講座を受けて書いた文章を追記したものです。
山田ズーニーさん、コルクラボで講習を開いてくれた運営の方々、深堀りを手伝ってくれたまりこ、ありがとうございました。