都会の波止場としての東京海上ビル①
また東京から建物が消える。歴史的には東京の都市化の象徴であって、ある個人的な視点では地方出身者にとっての冷たい朝露の降りる波止場だった。
東京海上日動ビルディング(東海ビル)は戦後の超高層ビルの先駆けだった。
コルビジェの影響を受けた昭和建築の巨匠、前川國男唯一の超高層建築は、1963年の建築基準法改正で「市街地建築物法」が撤廃されたことで可能となった。
それまでの建造物には「百尺規制」と呼ばれる、31mの高さ制限があったのだから時代を感じる。
計画立案のされた当時、それよりも高い建物がなかったこともあり、未知の超高層ビルが東京の「景観を損なう」恐れに対して多くの声が上がったことは、最近の国立競技場公募で起こった情けない顛末に通ずる部分がある。
だがそれでも、半世紀前の「皇居を見下ろすのは不敬」という意見なんかは今耳にしても新鮮で興味深い。
僕は、あまりに突飛なものでない限り、いいデザインは街を活性化こそすれ、その場所の未来を損なうことはないと思う。
(ザハ案はコスト面で問題はあったが本当にかっこよかったし、少なくとも20代の僕はあのアヴァンギャルドな巨大建造物が東京にできる未来にいたく興奮した)
翻って、現在の東海ビルを見て景観を損ねたと思っている人はほとんどいないだろう。丸の内の良心ともいうべき落ち着いた赤タイルの風貌と半地下の緑の庭園は都会の隠れたオアシスのようだ(それこそが前川や彼の師事したコルビジェの思惑であったのだが)。着工時に賛否こそあったが、東京駅に連なる丸の内の高層化へ向けた第一歩のシンボルであるという意味でとても革新的なビルディングであったのは間違いない。
戦後から70年代まで、右上がりの成長を続ける日本経済躍進の過程で、歴史には現れない声なき悲劇を思う。
産業公害や環境汚染といった看過できない副反応の影で、人知れずその痛みを背負った小市民がいた。
じとじと化膿した皮膚のような負の遺産に苦しんだ個人がいた。
俯瞰すれば戦後第2の転換期を迎えたこの時代に、全体主義の社会で苦しんだマイノリティは如何に生きたのか。
それでも彼らは未来への希望を持っていたと信じたい。
様変わりする極東の大都市の発展という文脈において、この褐色の塔は、人々の目に明日への希望を携えた大きな楔(くさび)のように映ったのではないか。
新しい時代への巨大な畝りに翻弄される日本の都、東京の中心にあって、巨大な悲鳴と地響きを伴って振り下ろされた大きな鎚(ツチ)によって、それは歓喜と恐怖の血しぶきを上げて、強く深く打ち込まれたのではないか。
建物ないし、物質はそこにあるだけで人に影響を与える。
(続)