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世界を魅了するカスタムバイクビルダー中嶋志朗 さまざまな経験が堆積した唯一無二のものづくり

INSPIRATIONS/MOBILITYは100年に一度の大変革を迎えた自動車業界において、クルマの新たな可能性を模索する活動として2019年に誕生しました。モータージャーナリストをはじめ、クリエイティブ・ディレクターやさまざまな分野のプロフェッショナルたちが集い、これからのクルマ、これからのカーライフについて、自由に意見を交わし刺激し合える場づくりを実践しています。 https://www.inspirations.jp/

「A DAYをTHE DAYにするクルマ」を目指し、INSPIRATIONS/MOBILITYのクリエイティブディレクター佐藤夏生と、日本を代表する孤高のカスタムバイクビルダー中嶋志朗が作り上げたのが、スキーライフを拡張するクルマ(前回記事参照)だ。新型ディフェンダーの後部座席を取り払い、そこに木製のフローリングとウッドベンチ、さらに極小薪ストーブを搭載。ルーフには大人ふたりが登れる頑丈なキャリアと、スキー板が収納できるベンチにもなるボックス。雪山で仲間たちとスキーを楽しんだ後、薪ストーブを囲んで美味いコーヒーを飲む。そんな夢のあるクルマの全製造を、ほぼひとりで手がけた中嶋志朗に、その類い稀なるクリエイティビティとその原点について語ってもらった。

DIY好きな父とピアノ教師の母
ものづくりが日常だった学生時代

編集部:前回はこのプロジェクトの経緯や目的について伺いましたが、今回は志朗さんのものづくりにおける情熱や、そもそもの経歴について伺いたいと思います。
中嶋志朗(以後、中嶋):よろしくお願いします。
佐藤夏生(以後、佐藤):志朗さんは世界的に有名なバイクビルダーですが、現在は八ヶ岳の山奥に工房を構えていて、もはや天狗のような存在になってますからね(笑)。この機会に志朗さんの天才的な技術力とパッケージング力の原点を紐解いてみたいなと。
編集部:早速なのですが、ものづくりに興味を持ったのはいつ頃ですか?
中嶋:子供の頃からですね。ちょうど先日も同じような話をしていたのですが、昔からやってることは変わってないんです。もちろん使っている道具や作るものの規模や質は進化していますけど。根本的にやっていることは変わっていない。ものづくりに関しては父親の影響が強いですね。父は普通のサラリーマンだったんですが、DIYが好きで休みの日は家の棚を作ったり、自宅を増築する際は、わざわざ電気工事士の資格を取って配線を全て自分でやるような人でした。特にクルマが好きで、当時としてはまだ珍しく、ユーザー車検を自分でやってましたね。タイヤを外してブレーキパッドを交換したり。
佐藤:カスタムとかもされていたんですか?
中嶋:いや、普通の自家用車だったんでカスタムというよりも整備。とても大切に乗っていましたね。それを横で見ていたので、小学生ながらいつか自分のクルマが欲しいって思ってました。そして母親がピアノの先生だったので、ピアノは母から習いつつ、中学生くらいになると、みんなでバンドをやろうって話になって。ピアノをやっていたお陰でギターはわりとすぐ弾けるようになりました。当時中学生ですから、それだけで学園祭で目立てて。そうやって人前で演奏して拍手をもらうことからはじまって、作りたい音楽を自分で作ることが楽しくなっていって。高校の頃は音楽が一番面白かったですね。

大学生で初めて買ったSR

編集部:では学生時代は音楽一筋だったんですか?
中嶋:自転車もいじってましたね。音楽と自転車の二本柱でした。でも自転車というよりも、早く自分のクルマが欲しかった。受験勉強の行き帰りは常にクルマ雑誌を読み込んでました。MINIとかMGとか欲しいなあって思ってて。でも実際、大学生になって一人暮らし始めると気付くんですよ、クルマなんてとても買えないって。
編集部:なるほど。
中嶋:そこで出てきたのがバイク。バイクだったらアパートの前においておけるし、本体も維持費もクルマほどかからない。それで色々調べ始めたら、どうやらSRってバイクがあるぞ、と。そして安いSRを買いました。

編集部:それが初めてのバイクだったんですか?
中嶋:はい、大学一年生の頃です。
佐藤:僕も丸かぶりです!同じ頃に初めてSRを買いました。そしてダビダのヘルメット被ったりして。
中嶋:そうそう、ショットのシングルライダーズ着て、エンジニアブーツ履いて。もともと古いクルマが欲しかったので、なんとなくその匂いに近いものがいいな、と。その結果がSRでした。
佐藤:その頃読んでいた雑誌はなんだったんですか?
中嶋:カーマガジンやTipo辺りはかなり読み漁ってました。
佐藤:わかります!西風さんのクロスロード、GTロマンとか。
中嶋:ジュリアスーパーとか。その辺のクルマは今でも好きなので、かなり影響を受けてますね。

佐藤:SRはどういう風に乗っていたんですか?
中嶋:いわゆるカフェレーサーです。セパハンにして、薄いシートで。それも自分で切った貼ったしてましたね。
編集部:いきなり自分でカスタムしたんですか?
中嶋:バイクもクルマも自転車も機械的な構造はそれほど変わらないですから。
編集部:自転車とバイクはだいぶ違う気がしますが。エンジンがあるか無いかとか。
中嶋:実は電子工作も好きだったんですよ。小学五年生の時にアマチュア無線の免許取ったりしてましたから。秋葉原によく行くオタクっぽい小学生でした。
編集部:なるほど、電気系統に関しても詳しかったってことですね。それにしても自転車いじって、音楽やって、電子工作もやってる小学生って、、、。まさに冒頭おっしゃっていた「やってることは変わらない」って、このことだったんですね。

ギタリストとバイク雑誌ライター
二足のわらじで磨かれた編集力

佐藤:志朗さんはプロのミュージシャンとしても活動されていたんですよね?
中嶋:サポートミュージシャンですね。もともと将来は音楽をやりたいと思っていたので、大学生の後半ごろからジャズギタリストの付き人、いわゆるボーヤをやったんです。荷物を運んで、本人をライブ会場に連れてって、楽器をセッティングして、ライブ中は駐禁切られないようにクルマをちょくちょく見に行って。でもそこで現実を目の当たりにしました。ついていたギタリストの方はすごい人だったんですが、それでもジャズはこんなに厳しい世界なのか、と。これは食っていくの大変だなと思いましたね。その後、大手音楽レーベルのオーディションを受けたんです。そしたらサポートミュージシャンとしてお仕事をもらえるようになり、そのレーベル所属のいろんなアーティストのギタリストをやりました。メジャーどころだとケミストリーとか絢香とか。かれこれ30歳ぐらいまでやってました。

編集部:その間、バイクは趣味だったんですか?
中嶋:いえ、バイクはバイクでやってました。もともと大学時代にバイク雑誌の編集部でもバイトしていて、いわゆる編集プロダクションで。大学卒業後も契約社員として1年半ほどそこで働いていました。でも関わっていたバイク雑誌が廃刊になってしまい、そのタイミングで辞めて、アメリカ行ったりして。でもその後も、バイク雑誌のフリーライターは続けてました。
編集部:すごい、、、まるで二つの人生の話を聞いているようです(笑)。

カスタムバイクショップの設立と
改めてひとりでやろうと思ったきっかけ

佐藤:そこからリトモ・セレーノ(西東京市にあるカスタムバイクショップ)の創業に至るんですよね?
中嶋:はい。その頃ちょくちょくアメリカに行くようになって、現地でバイクを1台買って、それでアメリカを旅して、そのままそのバイクを日本に持って帰ってきて売ると旅費分が出ちゃう。それがエスカレートして、コンテナ借りてバイクを10台ぐらい買いつけてメンテナンスして個人売買で売る。結構儲かりました。そのバイクを買ってくれたお客さんの中で、出資するからこれをビジネスにしよう、って人がいて。で、吉祥寺に店を開いたのが26歳の時です。
佐藤:当時はどんなバイクを扱っていたんですか?
中嶋:個人的にはBMWやモト・グッツィが好きだったんですが、初めは同世代の人に売れるように中型で乗れる日本車のヴィンテージオフ、ホンダエルシノアやヤマハDT、カワサキビッグホーンあたりですね。でも結果的にはいろんな種類のバイクを扱いました。
編集部:そしてお店を後任に託して八ヶ岳に移ったのが2014年。
中嶋:そうですね、お店を開いたのが2001年なのでトータル14年はお店をやってました。

佐藤:移住するきっかけはなんだったんですか?
中嶋:会社自体はうまくいっていたんですけど、自分が経営者目線になりすぎたたというか、効率よく仕事をとってきて、効率よく納品していくという一連の作業に追われるようになり、メカニックの仕事に集中できなくなって。人が増えていく中で自分の目の届かないところでクレームが来たりして、それが自分にとっては結構ストレスで。いつしか環境の良いところで、ひとりでやりたいな、と思うようになったんです。
佐藤:経営者としてよりも、ビルダーとして、自分の納得いくものを、自分の責任でやりたいと。
中嶋:そうですね。大勢の人をうまく束ねて効率よくバイクを作るより、自分の納得のいくものをしっかり作りたいという思いが強かったのかもしれません。だから、田舎に来ても成り立つ、自身のブランドを作ろうと考えていましたね。

目指すのは、ものづくりの新しい見せ方

佐藤:志朗さんは手(技術)が発達していて。独立して凝り性な脳とそれを実現する手が完全に直結したわけですね。
中嶋:自分の手で何かを作ることに喜びを感じるというのはすごくありますね。単純に手を動かすのが好きなんです。なので、そこに対する労力は自分は負担に感じてないんです。
佐藤:志朗さんのYouTubeチャンネル(46works)でバイクのエンジンガードを直すって動画があって、エンジンガードなんて新しいのに変えればいいのに!と思っちゃうし、側から見ればめちゃくちゃ面倒な作業。でも、志朗さんはそれをニコニコしながらやってるじゃないですか。っさらに、その様子をちゃんと動画にして配信しているのが素晴らしい。

中嶋:個人的には、作ったバイクだけでなく、それを作る過程も作品の一部だと思っていて、それをちゃんと見せるということは意識しています。
佐藤:世界中のどこからでもアクセスできる情報技術を駆使し、古典的で地道なものづくりに改めてフォーカスしてる。
中嶋:そういう「ものづくりの新しい見せ方」はもっとしたいですね。これまでは、出来上がったバイクをカスタムショーで披露して、それで終わりでした。出来上がったバイクだけが評価の対象というか。でもその過程や工程をちゃんと見せることで、派手さはなくても、すごく手間がかかってるとか、このシンプルな部品一つ作るのにこんな苦労があるんだとか、そういう背景もちゃんと見せることで、バイクやカスタムの価値を上げていきたいと思ってます。
佐藤:ショー映えするバイクを作ろうとすると、完全にショーのためのバイクになってしまいますからね。目立つ形や技術、手数勝負になっていく。
中嶋:一方、僕のバイクはショー映えしない。それでもブースに来てくれる人がいるのは、そういう製作過程を見てくれてる人や、そこに価値を感じてくれている人がいるんじゃないかなと思っています。

佐藤:シンプルで、日本刀のような削ぎ落とされた美学がそこにあって、そこに熱狂するファンは、日本だけじゃなく世界中にいますもんね。
中嶋:実はリトモ・セレーノをオープンした時も、まだブログとかが出始めたばかりの頃だったんですが、手打ちでホームページを作りながら、その中でかなり細かいバイク制作記録を掲載してました。バイク好きが見ると何時間も読んじゃって、最後は欲しくなる、みたいな構造を作ることは、ずっと意識していますね。
編集部:それはまさにご自身が、クルマ雑誌の読者として得た実体験と、バイク雑誌のライターとしての実績があったからかもですね。
佐藤:それが動画になるとよりわかりやすくて、さらに世界中に配信できる。
中嶋:YouTubeチャンネルは結構頑張って育てました。職人がコツコツやってる全てを見せる、というのがひとつのモデルになればいいなと思っています。

編集部:ちなみに技術的なことはどこかで学んだんですか?
中嶋:基本的には全て独学です。溶接などは上手な人に自分が溶接したピースを持っていって質問しまくったりしましたけど。板金も、僕よりも上手い人はいくらでもいるし、溶接も機械加工も同じ。でも、音楽や編集なども含めて、いろんなことをやってきた経験が自分のアドバンテージなのかもと思っています。
佐藤:全体を見ながら細部にもこだわる。その行ったり来たり。まさに音楽にも編集にも通じる、ものづくりの本質ですね。

A DAYをTHE DAYにするクルマ
基準となる部品がないところに基準をを作る。

編集部:では、改めて新型ディフェンダーの話を。志朗さんのYouTubeチャンネルでもその製作背景を見ることができますが、今のところの反響はいかがですか?
中嶋:反響良いですよ。知り合いにも「あれすごいね」と言われます。
編集部:前回のインタビューで、このプロジェクトで最も難しかったのが、基準となる部品がないところに基準を作る、というお話でしたね。
佐藤:ディフェンダーを一旦バラしてみて、その狭さにテンション下がったっておっしゃってましたよね。
中嶋:そうですね。基準となる部品がない上に、外せないものもあって、それらを避けながら快適な空間を作る必要がありましたし、事前に完成形のイメージがついていなかった。いつもの仕事と大きく違ったのはそこで、目指すものの輪郭が見えない状態で走り出し、ある程度やりながら方向を定めていく。具体的には後部座席をどうするか決めるまでが大変でしたね。

佐藤:骨格が決まった時に志朗さんが、「ここから先は早いんで」って言ったのを覚えてます。僕としては、え!?骨組みができただけでしょ?って思いましたよ。
中嶋:試行錯誤しながら進めるのと、あとは手を動かせばできる、ってのは気持ちが全然違いますから。
佐藤:その点、薪ストーブの設置は迷わずにスパッといきましたね。
中嶋:薪ストーブは基準ができていたんです。置く場所も煙突の場所も大体決まっていたので、あとはそれを繋ぐだけなので、そういうのは早いです。例えばバイクだと、バックステップをつくるとなれば、ボルトの穴とペダルの位置は決まっているので、あとはどういう形にするかってだけなんですが、例えばカウルをつけます、となった際、基準のない空中にいかにいい位置にかっこよく設置するかを0から考えなくちゃいけない。そういう作業は時間がかかります。

編集部:逆に今回の作業で楽しかった点はなんですか?
中嶋:ラダーの案を考えるのは楽しかったですね。アイデアを考えるのは好きなので。車体横につけるとか、スライド式にするとか、いろんな案がありました。

佐藤:当初、キャリアやラダーも純正でこういうのがありますよ、って紹介したんですが、志朗さん、その辺には一切興味を示さなかったですもんね。
中嶋:今回の企画で市販品を買ってきてつけちゃうと、そもそも僕がやる意味がないな、と。売っていないもので、しかも作る意味がちゃんとあるものを作りたい。その中で僕が一番嫌なのが、自分が作ったものが使われない、ということ。使い勝手が悪いのは論外。ラダーはあるけど「怖い」から上がりたくない、とならないように、しっかり重厚なものにして、登りきるまで掴める手すりをつけるなど、そういう精神的な障壁もクリアしたい。
佐藤:その上でかっこよさも担保する。まさに機能美ですね。今回のラダーもすごくしっかりしていて、登り降りしやすいし、何よりかっこいい。
中嶋:角パイプを繋いで、その角をRにするって、結構手間のかかる作業なんですよ(笑)。
佐藤:そしてそこに煙突をしまう、というのも、まるで初めから計算されていたかのようにフィットしましたね。

中嶋:そうですね。あれは気持ちよかったですね。形を作っていく中で、いろんな課題が出てきますが、その都度「こうすればいいじゃん」みたいなアイデアは結構思いつくほうだと思います。逆に、この部品や機能は、絶対ここになくてはならない、みたいな執着はあまりない方だと思います。
佐藤:山奥に籠ったら自分のスタイルに頑固になりそうですが、その辺、志朗さんは柔軟ですよね。
編集部:これを機に、今度はこんなクルマを作りたい、やってみたいなどありますか?冒頭で伺ったように、もともとは自分のクルマが欲しいというのが、志朗さんの原点だと思うので。
中嶋:うーん、でもやっぱりクルマはあくまで趣味ですね。クルマはバイクに比べ、使うパーツの種類や数、そして関わる人も多くなりますから。もちろんパーツのみの製作であれば良いのですが、クルマ作りをビジネスにするつもりはないですね。でも、やはり自分のクルマは作りたいと思っています。あとはチャンスがあればショーでバイクと同じ空間に、そのバイクと何かしらつながりのあるクルマを一緒に展示してみたいという思いはありますね。デザインなのか、コンセプトなのか。バイクやクルマは、ライフスタイルとか、デザインとか、乗った時の楽しさや、いじる楽しさまでを満たしてくれるもの。それは昔も今も変わっていませんから。
佐藤:それは楽しみにしてます!そしてこれから本格的なスキーシーズンが始まります。実際にこのクルマでスキーに行ってくるのでその感想をまた共有しますね!
中嶋:はい、楽しみにしてます!

佐藤夏生(写真:右)
1973年東京都生まれ。博報堂のエグゼクティブクリエイティブディレクターを経て、2017年、ブランドエンジニアリングスタジオEVERY DAY IS THE DAYを立ち上げる。企業の商品開発や事業戦略、都市デザイン等、クリエイティブワークを拡張してる。2018年から渋谷区のフューチャーデザイナーも務める。

中嶋志朗(写真:左)
「46works/ヨンロク・ワークス」代表。カフェスタイルを纏ったBMWのカスタムマシンを世界中に広めたことでも知られる。現在は山梨県八ヶ岳にあるアトリエにてカスタムバイク製作やクラシックカーのパーツ製作、またオリジナル・ファニチャー製作なども手掛ける。工学部出身で、さらにクラシックレースやツインレース等に競技者として多数参戦経験があり、理論と実践からなる車両製作を得意としている。

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