恥ずかしいことを思い切ってやることの意味
たった一人で弾いていた「インスピアノ」を人前で弾きたい。
そんな風に思い始めたころの話を書こうと思う。
有名になりたいとかじゃない。そんなのよりもっともっと手前にある、はじめの一歩。
とにかく、自分を癒し、整える作業が進み、内なる最高の応援団の存在、いわゆるハイヤーセルフとつながるようになった。(それはまた別の機会に書くことにする)
そのころまで私は「はじまるや」という屋号で、他人のクリエイティビティや活動のきっかけの場を、自分の家で小さく開いていたのにもかかわらず、自分のことは一番最後。
なぜならとんでもなく怖がりだから。
自分はずっと、さなぎだった。やっと羽化しようとしているのに、
なかなかはじめの一歩が踏み出せない。
「恥ずかしい。怖い。どう思われるだろう。」が強かった。
インスピアノは完全なる即興なので、ただ指の動くままに鳴らすだけの、でたらめなものを、聴く人はどんな風に思うんだろう?とか、ピアノを人前で弾くというのはそれ相当の技術がないといけないという既成概念とか、思い込みが根強く、(特に私がだったのだと今はわかる)インスピアノなんて自由な弾き方を5年もやっているのに、心の奥ではこれは誰かのためのものじゃないとわかってるのに、矛盾するようだけど、他人の評価が怖かった。これがどういうモノなのかを知らない。
たまたま、前に習い事の発表の場として、ひとり一芸大会なるものをやっていたと、美容室を営む友人に聴き、おお、それだ!と思い立ち、観客も演者も一つとなって入れ替わり立ち代わり楽しむイベントをその方と一緒に主催することにした。その名も「みずからまつり」。ひとりでは怖いけれど、みんなで同じようにドキドキを分け合えばいい。いい!やりたい!!
神楽が、神様を楽しませる祭りなら、自ら楽しむ「みずからまつり」。
会場の水沢ともかけている。自分が住むところから車で1時間半とかかかる、離れているのもいい。少し知らないところのほうがいい。県外からいろいろな初めましての顔ぶれが集まって、多彩な顔触れ。普段の自分を知っている人ばかりだと逆に緊張するとおもうので、それもよかった。
舞を舞う人、歌う人、太鼓を打つ人、物語を読む人、などなどが集まって一人ずつ披露してゆく。
これが初めての人前でインスピアノを演奏したときの貴重な映像です!
ガラホをピアノの上に置いての撮影です。
結果、そこにいた7.8人の人たちから拍手をもらった。ある人はピアノって学生の頃のクラシックを聴かされた経験で、そんなに好きじゃなかったけどヨーコさんのピアノはすごく好き!と言ってくださったり、
即興で弾いてみてください!一緒に歌ってみたい!と言ってくれる人がいたり・・・そして急遽セッションになり、自然と舞や鳴らしものが加わり、大きな渦になった。その時の音源がないのが残念過ぎる。
完全に時が止まった。
エネルギーが交流しあった。一つになるってこういうことなんだなと。
音楽ってこういうことなんだな。と。
初体験でなんか体中の細胞が知ってしまったのだ。
エネルギーがつながる心地よさ。を。
誰かに聴かせるための音楽ではなく、自らが楽しむ音楽。
プロになるとか、コンサートを開くとかそういうこと以上に、自分一人でやっていた以上のことをこのインスピアノで分かち合えるかもしれない、そう思ったら、どんどんワクワクしてきた。帰りの車の中では、ずっと即興鼻歌を歌っていた。クリエイティビティの回路がが出口を見つけて、どんどん湧き上がってきてしまったようだった!
そのあとは、必要な経験と出逢いがが次から次へと、待っていた。
いろいろなことがあって、その一年後には、誰かの前でその人の魂の本質の音を弾くということをしている。
私は思うのだけど、何か自分の中で変化する前というのは、異常に怖くなる。特に今まで芋虫だった蝶が、さなぎになって、まさか自分が飛べるなんて思ってもみなかったとおもう。
けれども、いつのまにか、羽を広げて飛んでいる。時期が来れば。
思い切って何かをやってみたいと思ってやってみること、そして、その時に何を感じたのかが原動力になるということ、それは飛び込む前の自分にはわからないことなんだ。
だから、口を酸っぱくして、怖がりな自分にまた言う。
内なる声、魂に訊くことをお忘れになりませぬよう。それは最も古く最も新しい成長の唯一の道と信じますゆえ
これは「智恵子抄」の高村智恵子の言葉を暗唱しているものだけど
本当にそうだと思う。
あなたの魂は何をしたいといってますか?
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