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最後に、きちんと「怒った」のはいつですか

自分が最後にきちんと「怒った」のはいつだろう。
思い返していくほどに、記憶が見つからずに不安になる。

ある日、友人の編集者と二人で飲んでいた。
当時世間を騒がせていた相模原の障害者施設で起きた事件に話題が移ったとき、彼は言った。
「今なら思う。僕らはもっとちゃんと怒るべきだったんだ」
「本気であの犯人に怒った人が一体どれだけいたのか。自分も、すぐに怒れたとは言い切れない」

たしかに、振り返れば、僕はちゃんと怒っていなかった。
ああ、そんなことが起こってしまったのかと驚き、そしてニュースから目を背けた。
悲しかったからだけではない。
日々成果にこだわり仕事に打ち込む自分が、いつかあの犯人のように「障がい者は社会の役に立っていない」という考え方を絶対にしないと言いきれるのか。そう考えると、すごく怖かった。恥ずかしいことだけど、確信が持てなかったのだ。

彼は枝豆を剥きながら、僕と視線を合わせないようにしてこぼした。
「おれ、ちゃんと怒れるのかな。これから、何か大切なことが起きたとき」


誰だったか、「原理主義者は子どもだ」と発言した人がいた。
原理主義とは、「世の中の原理原則はAだから、A以外のものはすべて許さない」という態度のことだ。
でも、大人は、A以外のことが起こったとき、その裏側に何か事情があることを知っている。
やむにやまれぬ事情があったのかもしれない。
自分も何かの偶然が起これば、そちらの側にいたのかもしれない。
その「かもしれない」という「留保」を大切に持っておくのが、節度ある大人の態度なのだと、その学者は言った。

はじめて聞いたときは、立派な意見だと思った。

でも、留保が増えていくということは、裏を返せば反射的に「怒れなくなる」ということでもある。
たくさんの「かもしれない」と引き換えに、自分は大切なものをなくしていないだろうか。

怒るべきことに対して怒るということは、自分にとっての存在証明みたいなものだ。
たぶん、何が好きかよりも、何を許せないかにこそその人らしさは表れる。

僕も、昔はもっと怒っていた。
小学生のとき、子どものことを思うふりをして保身ばかり考える教師の卑怯さに、いつも憤っていた。
「本当のことをうっすら知りつつも、知らないかのようにふるまう」というタイプの卑怯さにどこまでも敏感な子どもだった。

「怒る」って大変だ。
怒るからには、自分にやましい部分があっちゃいけない。
「自分にはその資格がないかもしれない」という思いがひたひたと押し寄せてきたとき、僕は怒るのをやめたのだと思う。そして自分でも意外なほど上手に、かつての気持ちをなかったことにしてしまった。
そう、僕は、相模原の事件について怒らなかったのではない。怒る資格がなかったのだ。


今の僕は、きちんと怒る大人に憧れる。
いつしか怒ることが減った自分へのちょっとした罪悪感とともに、社会に怒る人の声を、編集者として、いちばんいい形で世に広めていけたらと思う。

自分の中の怒りも、少し減ってはしまったけれど、まだ消えてはいない。
何かが起こった時とっさに怒れるよう、今年は少しずつその「資格」を取り戻していこう。


あなたが最後にきちんと「怒った」のはいつですか。




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