「コスパ思考」は人を貧しくする
「先生、この授業って受ける意味あるんですか?」
こう聞く小学生が、最近増えているらしい。
「最近」といっても、内田樹さんの本でそのことを知ったのはもう4、5年は前のことだけれど。
小学生が先生に授業の意味を問う様子はショッキングだったが、ようは大人のマネなのだろう。
僕たち大人は、本質的にはこの小学生と同じことを毎日尋ね続けている。
「コストとリターンは見合いますか?」と。
職場の同僚のプレゼンに。
飲み会のお店を、食べログで探しながら。
コスパが悪い選択をする人は「情弱」と呼ばれ、すぐさま頭の悪い人認定が下される。
子どもも大人も、思考はどんどん「コスパ化」している。どんどん「情強」になっていく僕たちに、この流れは止められないだろう。
その後しばらくして、もう一冊の本と出会った。
過去読んだ中で最も好きな本の一冊、西国分寺にあるカフェ、クルミドコーヒーをつくった影山さんの『ゆっくり、いそげ(副題:カフェからはじめる人を手段化しない経済)』だ。
そこで語られていた、今でも大切にしている話がある。
クルミドコーヒーでは、かつて他のお店がよくやるように、ポイントカードを発行していたことがあったそうだ。しかし、あることに気づいて以来、すっぱりと廃止してしまった。
ポイントカードが、お客さんの「消費者的な人格」を刺激していることに気づいたからだ。
「消費者的な人格」とは、
「できるだけ少ないコストで、できるだけ多くのものを手に入れようとする人格」のこと。
人は誰でも少なからず「消費者的な人格」を自身の中に宿らせている。だからこそ、影山さんはその人格にできるだけ奥に引っ込んでおいてもらいたいと考えた。
わざわざこちらから「ポイント」という手段でお得感を煽り、呼び寄せることもないじゃないか、と。
(ポイントカードをセールに置き換える方が、より「消費者的な人格」の存在をイメージしやすいかもしれない)
社会はどんどんコスパ化していく(小学生の話)。
だけど、そのコスパ化を助長するかどうかは、作り手側に選択権がある(ポイントカードの話)。
書籍編集者である僕は、このふたつの話を読んでから、自分が本の作り手として「コスパ化」を助長することを選んでいないか、よく悩むようになった。
読者の「消費者的な人格」を刺激するには、千数百円という本のコストに対して、実用性というリターンが優れていることを主張すればいい。
読者の消費者的な人格はたちまちむくむくと膨れ上がる。コスパ感覚を鋭敏にした読者は、どんどん本をコスパで比べるようになるだろう。
それで本が売れるならまだいい。
でも、コスパを過度に打ち出すことは、長い目で見ると、本が売れなくなる方向に作用すると僕は思う。
本は、そもそもコスパの良さで勝負できる商品じゃないからだ。
まず、コストについて。
現代人のいちばん貴重な資産である「時間」を数時間も奪うことになるのだから、これはもう間違いなく高い。
1000〜2000円という経済的コストは決して高くはないけれど、読者は時間的コストの方を高く見積もるはずだ。
そして、リターン。
こちらの方がやっかいかもしれない。というのも、本は事前にリターンを正確に理解してもらうことがとても難しいからだ。
他の商品と比べるとわかりやすい。
服は買う前にリターンがわかる(何これかっこいい!)
食べ物も買う前にリターンがわかる(うまそうな肉!)
でも、本はわかりづらい(なんかおもしろ「そう」かな?)
一瞬本を見ただけでそのリターンを正確に予測できる人なんていない。このあたりは前回のnoteにも書いた。
しかも、そのリターンはいつ返ってくるかすらわからない。場合によっては十年以上かかることもある(個人的には、そういう本こそいい本だと思う)。
コストは高く、リターンもいつ、いや、そもそもどのくらい返ってくるのかすらわからない。本は本質的にコスパと相性が悪いのだ。
コスパの良さを訴えれば、一時的にその本は売れるかもしれない。
でも、読者がコスパ感覚を研ぎ澄ませ終わったとき、本というフォーマットは、自身が育てたその鋭敏な感覚がゆえに見放されてしまうだろう。
そうなって困るのは作り手だけじゃない。
僕は、「コスパ思考」は読み手にとっても有害だと思っている。
コスパ思考の最大の欠点は、「リターンを正しく見積もることができる」という前提にある。
じつは僕たちは自分たちが思っているほどリターンの見積もりがうまくない。世の中は、そんなにシンプルにはできていないからだ。
でも、僕たちは脳みその限界ゆえ、いつも物事の原因どんどん結果をシンプルにしか捉えられない。複雑すぎるあれやこれやを、脳は僕たちに無断で単純化してしまう。
(ギャンブルで勝てば誰だって「自分が天才だからだ」と思うが、そうでないことは少し続けてみればすぐわかる)
リターンはいつも、思わぬ形でやってくる。
その「自分のリターン見極め能力の低さ」を無視して、コスパが悪そうなものをすべてシャットダウンしていくと、やってみてはじめてわかるリターンを逃し続けることになる。この機会損失はめちゃくちゃでかい。
「これ、意味あるんでしたっけ」という問いを事前に投げかけ続ける人は、事後的にしかわからないリターンを永遠に逃し続ける。
そう、コスパなんて、それを自慢げに語る人にとったって、たいした福音でありはしないのだ。
回り道をしてしまった。
社会はだんだんコスパ化する。
コスパ化を助長するかどうかは、自分が選べる。
そして、コスパ化は本の作り手にとっても読み手にとってもいいことがない。
だから僕は、コスパ化を助長したくない。
そのために、自分に何ができるのか。
ひとつは、シンプルにいい本をつくること。
コスパ化が進むなかでもかろうじて本が買われ続けているのは、
「読んで何が得られるかはわからないけど、本になるくらいだから、きっといいことが書いてあるんだろう」という、本全体へのぼんやりとした信頼が保たれているからだ。
一人の編集者としては、「思った以上にいい本だったな」という本をつくることで、その信頼を少しずつ積み重ねていくしかない。その信頼を損なう本を、僕は絶対に出したくない。
もうひとつは、リターンの「角度」を少しだけ変えることだ。
「読者にとって実用性があること」
これはやはり、絶対に必要なリターンだろう。
コスパ化を助長したくないと書いた自分も、何の役にも立たなそうな本が読まれることを期待するほどにピュアではない(自分の胸に手を当てて考えてみますとですね……)。
むしろ、読者の実用性に対しての鋭い嗅覚を察知できないことには、偉そうなことを語る資格がないとすら思っている。
読者と自分の「消費者的な人格」を徹底的に見つめつつも、魂までは乗っ取られない、ブリーチの卍解的な難しさが必要なのだ(あんまり詳しくないから間違ってたらごめんなさい)。
ただ、僕はそこに少しだけ「熱量」を加えたい。
知識だけではなく、モチベーションを読者の中に植え付けること。
その本で得た知識をもとに、世界をちょっとでもいい場所にしたくなる。
「したくなる」のために、
「できるかもしれない」という、
自分への期待感を育てる。
そんな本を僕はつくりたい。
もはや、単なるエゴとして。
「青臭いねえ」と言う人もいるかもしれない。
「そんなことをして、リターンは見合うのかい」と思う、消費者的な自分だっている。
でも、そんなこと言ったら、
人生のリターンって一体なんなのさ?
(このnoteでは編集者として出版に対して考えていることを中心につづっていきます。Twitterはこちら→@inoueshinpei)