枯葉たちにくるまれて
「肌寒い……」
僕はどうしていいか? 何を言えばいいのか? わからなかった……。けれど、彼女の言うとおり肌寒かった。風が吹いていて、彼女の長い黒髪が、さらさらと揺れていた。彼女の白い横顔が少し見えた……。瞬間、僕に奇跡が……。恋をした。
そこに思春期のようなものがあったのか? 今でも疑問だ。
「そうだね」
僕が言うと、彼女は僕の右手をとってぎゅっと握りしめた。彼女のぬくもりのある白い左手。ピアノ弾きにしては小さかった。彼女が恥ずかしそうに僕に振り向いた。
それだけ。同時告白……。
高校一年、晩秋の学校からの帰り道。
皆、彼女に一目置いていた。ガリガリに細くて気の強そうな彼女を。彼女には音楽のことしかないのではないか? 彼女はピアニストになる事しか考えていないのではないか? という周りを寄せ付けない異様な力があった。
僕は、彼女と同じような血が流れているのではないか? という不思議な感覚が異性であるにせよあった。何も、誰も入り込む余地などない、ということを。僕は文字通り絵しかない。
でも、恋だけ違った。
運命の赤い糸
そして、新しい人生の始まりが到来した。
僕と彼女は同じ芸術大学に入学すると、よくある音大生用の完全防音のアパート(狭いロフト、キッチン、ユニットバス付の二部屋)を彼女の名義で借り同棲した。
僕はレコード店でアルバイトをし、画材を買い夢中になって絵を描き、描き、描いた。彼女はとにかくピアノを弾いた。休みの日なんか食事もとらず十時間ぶっとおしで練習していたぐらいだ。
僕らは画集を観たり、古いレコードを聴いたり、海外の小説や詩集の文庫本を夢中になって読んだりた。
毎晩、僕らはキッチンのテーブルで向かい合って芸術全般に突っ込んで語り合うようになっていた。時折、喧嘩にもなったりしたが、すぐ仲直りした。自然な親密さ……。
そして、二人で芸術から様々なことを想像した。芸術にはこの世のありとあらゆるものがまるで封印されたごとくの秘密が無限にある。それだけの歴史を培っている。僕らは芸術の秘密から、かなりの想像威力で引っ張りだしてきて得たもの(発見したもの)をかけがいのない宝物にした。
僕らはお金の余裕がなかったので(必要最低限のお金をつくらなければならない事情もあった)、演奏会も美術展もよっぽどのことがないと行かなかった。その "よっぽどのこと" は、確かに僕らの胸を強く打ったし、打ち砕かれることもあった。僕らは遊びやデートとは無縁であり、芸術に対して貪欲で、いつもまるで真剣勝負みたいだった。
けれど、僕と彼女の関係は卒業間近にあっけなく終わった。
彼女に恋した御曹司があらわれたのだ。
彼は僕に言った。
「彼女をサポートしたい。それが彼女のためだろう」
彼は約束を破る人間に見えなかったし、悪意も感じられなかった。
僕に選択の余地などなかった。
僕は黙って身を引くことにした。
彼と話したその晩、僕は悪夢にうなされ汗びっしょりになって、夜中に起きて外へ出た。夜空は曇りだったが、透けてきらめく星々が見えた。僕はこの星々を死ぬまで忘れられないだろう、と思った。
「ほんとにそんな簡単に結論出していいと思っているの!……。今まで楽しかったじゃない! 何も考えさせてくれないの!」
彼女は、真っ青な顔をして気が触れたように叫んだ。そんな彼女を見たのは初めてだった。
荷造りを終えていた僕は、冷たいあきらめた声で言った。
「ねえ、なにか? ショパンでも弾いてくれないかな?」
僕の声には、少し怒りも混じっていたと思う。
せめて、だらだら別れ話なんかするのではなく、彼女の弾く演奏を聴きながらこの部屋から出て行くんだ。
僕はそう決心していた。
「いいわ」
彼女は涙を拭って、ピアノの鍵盤をじっと見つめると、ショパンの『幻想ポロネーズ』を仄暗く艶やかな音色で弾き始めた……。僕は息がとまってしまうほど驚き、また彼女の世界に引き込まれた……。暫くの間、彼女から目をそらして聴いていたが荷物を抱えた。
さて、出て行こう……。
でも、彼女の強打鍵の連打で、僕は、びくっとして立ちどまった。僕の視線が、彼女の華奢な背中に釘付けになった……。この部屋の調律もろくにされていないアップライトピアノで、あのワルシャワのときと同じレヴェルの驚異的な演奏を繰り広げている……。ショパンの晩年の血が、どくどくと脈を打って彼女に流れている……。
そして、演奏が終わると僕は涙を堪えて、彼女の音楽の魔法にかけられたまま、何も言わずに出て行った……。
二人だけの扉から……。
四年間。
僕はほとんどやけっぱちになって変愛をし、出会いと別れを繰り返した。今、思うと彼女たちに謝罪しようもない。でも、その代償として、僕は自業自得によりひどい人間不信に陥り、より孤独になった。無論、結婚などない。そして、孤独のいく場所が絵しかなくなり、恐ろしく暗い抽象画しか描けなくなった。僕は危うく自殺するところだった。しかし、ちょうどその頃から僕の絵が売れだした。なんとか絵だけで暮らしていけるようになったのだ。しかし、時間の経過と共に孤独をいっそう好むようになり、その思いから東京を離れ、地方を転々とすることになった。
彼女は卒業後、直ぐに御曹司と結婚した。そして、その財閥は彼女の豪華絢爛なデビュー・リサイタルから演奏活動にCDなどのスポンサーになることを、あたかも家の近所のスーパー(行かないだろうけれど)へ食材を買い物をするように簡単にしてみせた。御曹司は、何でも持ち合わせている。彼女同様容姿もよかった。そして彼女もまたすべてを持ちあわせたのだ。地位も名誉も金も。
二年後。
彼女のCDが謎の人物から僕に送られてきた。誰からだろう? 何故だろう? それにどうして僕の住所を知っているのだろう? 僕は、そのとき屋久島にいたのだ。彼女はショパンの珠玉の名曲集といったものを録音していた。彼女らしくないな、と思った。
僕は暫く放っておいたが、ある日聴いてみると、まったく死人同然の音楽だった。血が抜かれている。まるで人形だ……。
彼女は、僕と共有していたものを容赦なく捨てていた。
でも、彼女の名声はヨーロッパ各地まで広まり、テレビ出演、財閥のパーティーなどへの出席、といったとても派手で優雅な暮らしをしているように見えた。まあ、彼女が富俗で楽しくてしあわせあればそれでよし、とすればいいのだろう、と僕は思っていた。
僕が嫌でもどこかから彼女の情報が入ってくる。彼女はそのくらい有名人になっていた。
彼女の訃報を知ったのはその三年後だった。
彼女は突然発狂し、精神病院に入院させられたが、ある日、心臓発作を起こし、この世から去ってしまった……。
彼女は、大海が見渡せる丘にある奇麗な墓に入っていた。大小別々の墓碑があった。
その大きい方の墓碑〈芸術家はここに安らかに眠らん〉には、かなり多くの立派な仏花が供えられていた。
もう一つの墓碑の〈甘い思い出〉は、からっぽだった。
僕は花立てに水を入れ、最寄りの駅の花屋で時間をかけて選んで買ってきた二束のかすみ草を〈甘い思い出〉の方に挿した。地味だけれど彼女の好きな花だった。
そのとき突然、風も吹いてないのに、彼女の大きな墓全体に膨大な数の枯葉たちが、ゆっくり、ゆっくり、と高高と舞い上がって、見上げるような長方形の巨大な壁になり、一旦静止する(どのくらいの時間か?)と、また、ゆっくり、ゆっくり、と舞い降りてきた。怪奇現象……。と、いうよりはむしろ天国にいるかのようだった。枯葉一枚一枚が光り、くっきりと美しく見え、また透明感があって、きらきらしていたのだ。
そのとき僕は強く思ったのだ。
彼女は死ぬ間際に彼女自身を取り戻したのだろう。手探りであろうと何であろうと何とかもぎとったのだろう。そして、血のかよった人間になったのだろう……。
しかし一瞬、僕は墓碑を二つとも破壊したい衝動に駆られた。シャベルか何か? で。そのくらい暴力的になった。
"狂っている" ……。
それから彼女の墓を去った。もう永遠に来ることもないだろう。
後で知った。その二つの墓碑のうちの一つは彼女の遺言であったことを。
僕は十代後半から二十代前半の一枚も売れなかった、そしてことごとく絵画展に落選した絵を、アトリエの倉庫から引っ張り出した。
でも、観たら、今まずまず売れている絵よりもずっとよく、まぶしいくらいの夢があり希望に満ち溢れていた。テクニックもまったく問題がない。スケッチ一つとっても彼女への確かな愛が刻まれている。つねに心の底から震えながら描いていた僕自身を思い出した。
そこには、
運命の赤い糸
が、確かにあった。
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