【論考】社会人で無関心なのは、愛情の反対ではなく信頼されている証。
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タイトルは「無関心なのは愛の反対ではなく信頼されている証」にしようか迷っています。
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タイトルの通りだと思う。
職場で、面談される機会が減った。明らかに減った。精神障害者としてはれ物に触るかのような扱いは受けなくなった。
何より社会人一年目の統合失調症持ちの精神障害者がいきなりパートとして入ってきたなら、それは心配もするだろう。
最近、時給も上がりめっきり心配されなくなった。
こちとて、職場だけに愛情を傾けることなく、定時になったらスッパリ帰る日々を続けている。
父親も、いとこと映画を観に行ったり、ドライブに行ったりすることに、特に関心を示さずに普通に許してくれた。
「愛情の反対は無関心」という言葉があるが、もしかしたら「無関心こそ信頼の証」なのではないかと思い始めた。
私は昔から愛情を求めていた。小学校の頃はおどけ役を演じ、みんなから笑われ、いじられた。昔は班長のようなこともやっていたが、「これって損する役回りだよな」と考えてから、おどけ役の、笑われる道を選んでいた。
それは、何よりも「他の人の関心をひく」という愛情の求めに過ぎなかったと今になって思ってきた。
小学校、中学校の頃は「信頼感がない」というのが周りの友人たちの評価だった。
そして、まあ、大学も卒業し、フリーターながらも社会人のような生活になった。
初めはとにかく質問しまくっていて、早く現場に馴染もうとした。非常に異質な目で見られていたような気がするし、精神障害者だから、と周囲には釘を刺されていたのかもしれない。
三年目。正職員さんたちはあれこれ喋っているが、私はただただ仕事を続けていた。正職員さんの中でもとびきり能力が高い人がいるが、その人はほとんど人と喋らず、エクセルの最強レベルのマクロや関数を作り上げていた。
他の正職員さんは、その人に作業をお願いすることを「外注」と呼んでいた。異質すぎる能力を持っていたために、ある意味で特殊な立場に置かれていた。
それで私である。
私には能力は何もないが、パソコンをただただ打ち続ける能力はある。少しはエクセルもできるようにはなってきた。従事事務実績を分析したり、色々できるようになっていた。
朝、「これをお願いします」と言われ、時折、まあまあ質問をしながら、ぼちぼちと資料を創っていく。特に誰も関心を寄せない。私が統合失調症患者であることを忘れているかのようだった。
「無関心は信頼されている証」なのかな、とふと思った。「愛情の反対は無関心」という言葉を信じすぎて、無関心でいられることが非常に苦痛だった時期が多かった。
しかし、社会人になると「無関心は信頼されている証」というのが強く感じた。
例えば、この「統合失調症(本物)になると、起こること。(雑記ブログ)」もコメントや評価も毎回つくわけではないが、毎朝二桁は必ず誰かが見ている。何もしなくても。私に直接的に何かくれるわけでもないが、《《無関心ながらも関心を寄せてもらっている。》》それは無関心のなかの信頼の証と言えるのではないかと思ってしまった。
仕事の終わりのほうに、論理的な問題を発見し、その法則を解いて正職員さんにメモを残して帰りについた。帰りに「ありがとうございます! グッドです!」と何か試験に合格したかのような反応をされた。この世の全てが「謎解きパズル」のように見えていた、統合失調症陽性期少し思い出して、ちょっと怖くなったが、大丈夫、なはずだ。自分の書いたメモ帳も、意思が伝わったら捨てられて、また、次の出勤日がやって来るだけ。それだけだろう。