学問に王道なし(理屈編)

学問に王道なし - Wikipedia

えぐざま2024年11月24日 11:03

学力が高いかどうかは関係がありませんが、該当する内容を教えられるかどうかは重要です。その意味で日東駒専出身の私が東大現代文クラスを教えていたことは資質としてはまったく問題がないと認識しています。しかし、わからないことを誰かが解説する行為は必要です。
「独習用の学習参考書」といってもその解決ルートをどう組むかを教える人がいない環境でどうしろと。早慶の英語が全然わからなかったとして、問題が単語力なのか、文法力なのか、英文解釈力なのか、長文読解力なのか課題もわからないし、仮に単語力だとして、ターゲット1200なのか1400なのか1900なのか鉄壁なのか、自分のレベルの客観的把握も難しい。
百歩譲ってそれがわかるようになったとしても、そこまでの模索で膨大な時間を要します。腕の立つ、いや、私程度の人間であっても、5分話して5分テストすれば、10分である程度対象となる単語帳ぐらい見当付けられることを五里霧中状態でやらされるから問題なのです。
よくある進学実績のない高校から奇跡的に合格したなどというケースでは、都会の名門高校生が一瞬で解決することを半年も遠回りして解決している場合も多いのです。

近道を探し回る行動は、むしろ、遠回りじゃないかと思います。

以下の「福翁自伝」の文章は、福沢諭吉が、大阪の適塾でオランダ語を学んでから、横浜に来てみたら、外国人とは全く話が通ぜず、世界の共通語は英語だとわかって、ガッカリした場面です。

しかしながら、福沢が気を取り直して英語の学習を始めてみたら、オランダ語の下地があったから、みるみるわかるようになったのです。

回り道は無駄ではなかったのです。

横浜から帰かえって、私は足の疲れではない、実に落胆して仕舞しまった。是これは/\どうも仕方しかたがない、今まで数年すねんの間あいだ、死物狂しにものぐるいになって和蘭オランダの書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、左さりとは誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆して仕舞た。
(中略)
詰つまる処は最初私共が蘭学を棄すてゝ英学に移ろうとするときに、真実に蘭学を棄てゝ仕舞しまい、数年すねん勉強の結果を空むなしうして生涯二度の艱難辛苦かんなんしんくと思いしは大間違おおまちがいの話で、実際を見れば蘭と云い英と云うも等しく横文にして、その文法も略ほぼ相あい同じければ、蘭書読む力は自おのずから英書にも適用して決して無益でない。水を泳ぐと木に登ると全く別のように考えたのは一時いちじの迷まよいであったと云うことを発明しました。

青空文庫 福沢諭吉「福翁自伝」

書店で、大学受験参考書として売られている英語参考書が、まさか、ロシア語の本であるはずがなくて、どう選んで学習しても、学習効果はあります。

どれが近道で、どれが回り道なのかを詮索することが、そもそも、学習の障害じゃないかと思います。

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