
絶対零度の板とは
ノーカラットから始まるSHHisのストーリーの5つ目
「それはとても青く」の
第六話「絶対零度の板」について考えます。
「ステージが冷たい」とは

アイドルユニットとして名声を得始めた彼女達が、純粋にダンスの力量を競う場に身を投じることが、一つの物語としての性格を二人に与えている事実が、少女により突きつけられます。

美琴は、自分が持たない「物語性」によって何度も行く手を阻まれてきました。天井社長の有名な「コマの話」であれば、美琴はいつも工学部のコマでした。
しかし、今度は自分が女子高生のコマになっていることに気付かされるのです。

にちかのかつての憧れは、彗星のように現れ、瞬く間に一世を風靡し人気の絶頂で姿を消した、伝説として語り継がれるアイドルでしたが、
その実像を垣間見た彼女にしても、世間が創り上げる虚像に思うところがあるのは間違いないでしょう。

「ステージが冷たい」とは一体何なのか?
話の流れから考えると、世間の作る物語↔冷たいステージ、という対比が形成されていると見ることが出来ます。
世の中はそのモノを評価する際になにかの基準もしくは他のモノと比較して評価する、つまり、相対的評価を行うことが多いです。
対して、にちかがここで喋っている「ステージ」とは、絶対的評価が行われる場所を指していると思われます。
では、このダンスコンペのステージ”自体“が絶対的評価がされる場なのかと言えば、
私はそうは思いません。
なぜなら、パフォーマンスを厳密に数値化して評価することは不可能だと思うからです。
勿論何かしらのクライテリアで点数付けがされるとは思うのですが、そこでも審査員(第三者)の主観的判断であることに変わりはないと思います
では、ここで定義される絶対的評価とは何か?
私は、
「自らの手によってステージ上でのパフォーマンスに対して行われる評価」
であると思います。
絶対的評価が「される」のではなく、「する」。
他人からどう評価されるか、ではなく
自分がパフォーマンスに満足できたか、前回より良くなっているか、
今までの自分より成長できているか、というような
自分の中だけの判断基準で自身を評価することが、ここにおいての絶対的評価であり、
ステージの冷たさが意味するところであると私は考えます。
このシーンが意味するもの

にちかの「ステージの冷たさ」発言について考えるにあたって少し彼女(達)の歩みについて振り返ってみます。
八雲なみに憧れてアイドルを志したにちか。当初彼女には「自分」すらありませんでした。
ですから、靴を捨てて自分と向き合うことは彼女にとって過酷な、辛い道のりだったのです。
その辛い道のりでも彼女が上を目指し続けられたのは、美琴がいたからに他ならないのですが
それと共に、自分の先を常に美琴が走っていることは、にちかにとって重圧でもありました。
セヴン#スにおいて、遂にその重圧がにちかの心を決壊させてしまうことになるのですが、
美琴が、八雲なみの”拳を握る仕草”とは
「彼女が彼女でいるための振り」であるという気付きを得たことで、
自分がアイドルであることの意味、シーズであることの意味を理解することとなり、
ついに彼女たちはお互いを見る(理解し合う)関係性にたどり着きます。
そうしてようやく二人は同じ立ち位置、
言ってみればユニットとしてのスタートラインに立つことが出来たわけです。

「ステージの上にいたはずの美琴」の手を取りにちかがビールケースの上に引き上げる、という描写は余りにも印象的ですが、
”ビールケースの上”が意味するのが、
彼女(達)が彼女(達)でいられる場所、
であり
彼女たちの居る場所=ステージ、であるのならば
彼女たちにとってのステージとは
「自分が自分でいられる場所」
だと言えるのではないでしょうか。
これを踏まえて、にちかの発言について考えてみると
美琴の、どれだけ研鑽を重ねてパフォーマンスを完璧に近づけられたとしても、物語に勝つことは絶対に出来ないのだ、という論理に対し、
今までのシーズが歩んできた道のりを通して得られた自分たちのステージ=(SheがSheでいられる場所)は、
「第三者の(相対的)評価=物語」の介入し得ない場所である、ということを彼女は言いたいのではないかと思いました。
ですが勿論、これは美琴の提起する問題の根本を解決するものではありません。
しかし、美琴はそれに対して

と返すのです。
私が思うに、
この二人の会話でもっとも注目すべきなのは、
会話の理路整然性はさておいて
「彼女たちが会話のキャッチボールを行っていること」です。
モノラル・ダイアローグスでは相手や自分を知ろうとすることすらままならなかった彼女らが、
セヴン#スそしてnot enoughという成長を経て、
そうなの?に、そうだよ、と返せる関係性になったこと
すなわち彼女たちが二人でいることの本当の意味を見つけたこと、
それが表現されているシーンだと私は思います。
更に言うと、美琴を自分にとっての”アイドル”として追いかけることしか出来なかったにちかが、美琴と同じ高さ(ステージ)で対話ができるようになったことも、このシーンがもつ大きな意味の一つだと私は感じます。
そして、にちかの発言が、説得力を持って、かは分かりませんが、
「うん、そうだね」と美琴を頷かせたのは、
まさに彼女が、美琴に”アイドルとは何か”を気づかせた=ビールケースの上に引き上げた人物であるからに他ならないのです。
まとめると、このシーンには
彼女たちそれぞれの成長と二人の関係性の進歩が凝縮されて描かれている
と私は感じました。
「絶対零度の板」について端的に私なりの見解を述べさせていただきました。
”いち”七草にちか担当の解釈として受け取っていただければ幸いです。
ここまで読んで頂きありがとうございました。