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第二章:中国古代文献に見る②

*この記事は、約10年ほど前に父が書いた全6章で構成されている原稿を順番に公開しています。

<過去記事>
『日本誕生』 はじめに
第一章 : 倭人の起源 ①
第一章 : 倭人の起源 ②
第二章:中国古代文献に見る①
参考文献・資料

二、古朝鮮のあった地域

古朝鮮とは、周代に殷王朝の王族箕子の興した国である。前漢の初め衛氏に王権を簒奪され、それ以降を衛氏朝鮮と歴史家は呼んでいる。

山形氏や、吉林大学の林教授らの研究によれば、中国歴代王朝の中で朝鮮半島まで遠征して、統治領域を拡大した王朝は、蒙古族の元王朝と、満州族の清王朝だけとのことである。

唐王朝も現在の鴨緑江を越え韓半島深く進行していなかったことが判明している。従って、前漢の武帝が滅ぼした古朝鮮(衛氏朝鮮)の地は、朝鮮半島ではない。 

定説では、古朝鮮の故地に漢が設けた四郡と三韓は図1~4(紀元前二世紀~五世紀)のように示されている。

図1、2
図3、4

これらは間違ったものであったと言わざるを得ない。

山形氏は、「魏略朝鮮伝」にある、周王朝が衰えた時に、燕が、自ら王を名乗り領地拡大に走った際の記録を挙げて、定説との地理上の矛盾を指摘した

矛盾する記録とは、燕王が朝鮮の西部地域を二千余里侵略し満潘汗に至りて界とした、というものである。定説では、満潘汗を平壌の北の清川江と解釈している。

ところが、古代中国の地理志において、対象となる国を起点とする方位は、その国の都を以って方位の起点とする原則がある。このことを考え地図を見ると、現在の平壌の西は海であり、切り取られた二千余里の西部陸地は存在しない。

よって、平壌の北の清川江を西に在るべき満潘汗と看做すのは無理である。定説に縛られずに山形氏が古代文献を研究して行くと、正しい解答を与える幾つかの記録があった

前漢の武帝の時編纂された文献に、「史記」がある。その巻百十五朝鮮列伝第五十五に、古朝鮮の場所を示す次の一文があった。

【 朝鮮有湿水・洌水・汕水合為洌水 】
朝鮮に湿水・洌水・汕水あり、合流して洌水となる。

洌水について、「後漢書郡国志」では次のように注釈している。

【 列、水名、列水在遼東 】
列は水の名、列水は遼東にあり。

また、「資治通鑑」の漢記の中にも

【 列口、県名也。列水河口、在遼東 】
 列口、県の名なり。列水の河口は遼東にあり。

「史記」および「資治通鑑」から、三つの河が合流した列水は、遼東に存在する河で、その河口は遼東に位置していた事が判明する。地図上で見ると、遼東には現在、遼河、渾河、太子河の三つの大河がある。

「漢書地理志」

【 分黎山、列水所出、西至黏蝉入海。行八百二十里 】
分黎山は、列水の出づる所、西、黏蝉に至りて海に入る。行くに八百二十里。列水は、水源を分黎山に発し、西に八百二十里流れて黏蝉に至り海に入る。

分黎山は、分水嶺となる山である。遼東で西に八百二十里流れる河の分水嶺となる地形の山を捜すと、現在の老禿頂山が西に大平原を控えた分水嶺となっていることから、これを分黎山と比定して見る。

西に向かって八百二十里流れて遼東で海に入る河が列水であり、列水の河口は列口である。列口は現在の営口である。これに合致する河を地図上に求めると、列水は現在の太子河であることが分かる。太子河は老禿頂山から西へ八百二十里流れて遼東の河口、営口に至っている。

太子河の流れる平原に存在し、太子河に合流する他の二つの大河は、渾河、遼河、がこれに相当する。

これらの事によって、古朝鮮が存在した地域は、太子河、渾河、遼河、の三つの大河が横たわる、現在の遼寧省中央から東部および吉林省にかけての中国東北地域であった事が、文献上の記録から判明した。

さらに「旧唐書巻六十一列伝第十一温彦博伝」の中に次の一文が見られる。

【 遼東之地、周為箕子之国。漢家之玄莬郡耳 】
遼東の地は、周が箕子の国となす。漢家は、これ玄莬郡のみ。

この記録はより直截である。古朝鮮は箕子の国であるが、それが周によって遼東に封じられたとある。また、漢家の中国東北地区における領域は玄莬郡だけである、との旧唐書の記録である。

これらの記録の他にもさらに幾つかの文献を挙げて、山形氏は、「古朝鮮の地は現在の遼寧省東部および吉林省南部の地である」と結論する。(図6参照)

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よって漢の武帝が朝鮮を滅ぼし、そこに四郡を置いたとする地は、朝鮮半島ではなく、現在の遼寧省東部および吉林省南部の中国東北地方、遼東地域であったと言うことになる。(図7参照)

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これで中国古典の遼東方面の文献と、実際の地理との整合性が、無理なく成立するようになった。

明治時代に、日本の東洋史学の礎を築いたと言われる学者たちが、古朝鮮を朝鮮半島に在ったと思い込んで、無理矢理造り出した北東アジア古代史地図は、全くの虚構であったのである。これにより、任那や鶏林に関する日本書紀の記述の信憑性がにわかに浮かび上がった

また、前章にて語られた、太古の倭人達の民族移動仮説とも整合する、真の古代北東アジアの風景が、無理なく描写されてくるのである。

三、高句麗はどこにあったか

高句麗の所在については、中国南開大学編纂の通史「中国古代史」の中で、次のように記述されている。

【 漢武帝時在高句麗置県属玄菟郡・在今遼寧新賓西。公元百三十六年・永和元年、扶余王利用東漢政府的虚弱、到玄菟郡。郡治在今瀋陽市東 】
漢の武帝の時高句麗あり、県を置き玄菟郡に属す・郡治は今の遼寧新賓の西。公元百三十六年・永和元年、扶余王、東漢政府の虚弱なるを利用し、玄菟郡に至る。郡治は今の瀋陽市の東にあり。

前漢の武帝の時代に、玄菟郡に属して高句麗県があった(現在の中国遼寧省新賓の西に郡治があった)。永和元年(紀元136年)後漢政府の弱まった所を突いて北方の扶余族が南下攻略してきたため、郡治を今の瀋陽市の東に移動させた。

高句麗は、前漢の武帝の頃(紀元前一〇八年頃)は国とみなされておらず、武帝は玄菟郡に属する県として高句麗を配置していた。

しかし、二百余年後の紀元一三六年、扶余王が、後漢の弱まった隙をついて玄菟郡域の北東部を勢力下に置くまでになり、後漢は郡治を新賓の西から、さらに西方に移動させ、今の瀋陽市の東に置いた。

高句麗は、後漢滅亡後の混乱期にその領土を拡大し、五世紀初頭の南北朝時代には、「旧唐書巻六十三列伝第十三裴矩伝」の中に、【 高麗の地は、周代これを以って箕子を封ず。 】と記述されているように、古朝鮮の地をほぼ全域勢力下においていた。

これらの記録により、南北朝時代の高句麗国の正しい所在地域は、現在の遼寧省東部から吉林省南部におよぶ、古朝鮮の地であった事が判明した。

山形氏は、さらに高句麗の都は何処にあったかを探求して行く。

「三国志・毌丘倹伝」の中に次の記述がある。

【 正始中、倹以高句麗数侵判、督諸軍歩騎万人出玄菟、従諸道討之。句麗王宮将歩騎二万人、進軍沸流水上、大戦梁口、宮連破走。倹遂束馬懸車、以登丸都、屠句麗所都 】
正始の時、倹は高句麗のしばしば侵犯するを以て、諸軍歩騎万人を督して玄菟を出で、諸道より之を討つ。
句麗王・宮、歩騎二万人を将い、軍を沸流水の上に進め、おおいに梁口に戦うも、宮、連破されて走る。倹はついに束馬懸車し、以て丸都に登り、句麗の都す所を屠る。 

・束馬懸車とは行路剣難の形容詞
・正始は魏の年号、紀元二四〇年から二四九年の間
・沸流水は、現在の渾江の古名の一つ
・梁口は、渾江に冨爾江が合流する地点

紀元二四〇年から二四九年の間で、魏の将軍毌丘倹は高句麗征討を行った。高句麗の国都「丸都山城」を落とした時、戦勝を記念して、丸都の山の石にその功績を刻み後世に伝えたと言われている。

その石碑の一部が清朝時代に板石嶺で発見された。(図7参照)

「奉天通志巻五十二沿革二統部二」に毌丘倹の石碑の断片を拾得した記録がある。

【 清光緒六年設治員呉光国得断碑於洞溝西北九十里之板石嶺付近、即世所称之丸都紀功碑。三国志、称毌丘倹束馬懸車以登丸都、則丸都必在山上、故或謂板石嶺丸都之所在 】
清の光緒六年、設治員・呉光国、断碑を洞溝の西北九十里の板石嶺付近に得たり。すなわち世にこれを「丸都紀功の碑」と称す。
三国志に「毌丘倹、束馬懸車し以て丸都に登る」と称されれば、すなわち丸都は必ず山上にあり、ゆえに、あるいは板石嶺は丸都の所在という。

毌丘倹の石碑の断片を板石嶺で得た。けわしい道を登って丸都を攻略したのだから、山の上である板石嶺が丸都のあった場所と言われる、という記録である。

また、「清史稿」には次のような記録もある。

【 納嚕窩集、龍崗嶺龍崗山、即古之丸都山也 】
納嚕窩集、龍崗嶺龍崗山、すなわち古の丸都山なり。
納嚕窩集:満州語で龍崗山を指称したもの

以上により、紀元二四〇年頃の高句麗の都は、現在の白山市北部に位置する龍崗山の山間部、中国吉林省白山市八江道区板石鎮にあった事となる

平壌城の位置

高句麗は紀元四二七年、都を平壌城に遷している。この平壌城が何処にあったかを調べて行くと、現在の北朝鮮にある平壌ではない事が判明してくる

「元史巻五十九地理二遼陽等書行中書省」の中に平壌についての記録がある。

【 東寧路、本高句麗平壌城、亦日長安城。漢滅朝鮮、置楽浪・玄菟郡、此楽浪地也。晋義熙後、其王高璉始居平壌城。唐征高句麗、抜平壌、其国東徙。在鴨緑水之東南千余里、非平壌之旧 】
東寧路、もと高句麗の平壌城なり。また長安城という。
漢は朝鮮を滅ぼし、楽浪・玄菟郡を置く、これ楽浪の地なり。
晋の義熙後、その王高璉、始めて平壌城に居す。
唐は高句麗を征し平壌を抜き、その国を東に徙す。
鴨緑水の東南千余里にあるは、平壌の旧にあらざるなり。

これは、元時代に鴨緑江の東南千余里にあった平壌(現在の平壌)は、昔の高句麗の平壌ではなく、東寧路がもとの平壌城であると言う記録である。
そこで、高句麗の都であった東寧路が何処に在ったかを調べて行くと、次の幾つかの記録から、平壌城の古地は鴨緑江を南に控えた集安に求められると言う結論となる


「隋書巻八十一高麗伝」

【 其国東西二千里、南北千余里、都於平壌城、亦日長安城。東西六里、隋山屈曲、南臨バイ水 】(・・バイの漢字は氵に貝のつくり)
その国、東西二千里、南北千余里、平壌城に都す。また、長安城という。東西六里、山に隋って屈曲し、南はバイ水に臨む。
バイ水:大きな河を意味する用語

「資治通鑑巻百八十隋紀」

【 平壌城、高麗国都也。亦日長安城。東西六里、隋山屈曲、南臨バイ水。杜佑日、高麗王自東晋以後、居平壌城、即漢楽浪郡王倹城 】(・・バイの漢字は氵に貝のつくり)
平壌城は高麗の国都なり。また長安城という。東西六里、山に隋って屈曲し、南はバイ水に臨む。杜佑いわく、高麗王は東晋より以後、平壌城に居す。すなわち漢の楽浪郡王倹城なり。

平壌城は漢の楽浪郡にあった王倹城であるという記録である。

漢の楽浪郡は箕子朝鮮の地に置かれた4郡の一つであるから、平壌城は遼寧省東部から吉林省南部にかけた地域にあったことになる。また、北側が山で都城の南を流れる大きな河のある所に立地していた。こう言う立地が可能な大河は、この地域では鴨緑江のみである。
「旧唐書巻六十七列伝第十七李勣伝」中にその河の名が出てくる。 

【 総章元年、命勣為遼東道行軍総官、率兵二万略地至鴨緑水。賊遣其弟来拒戦。勣縦兵撃敗之。追奔二百里至於平壌城 】
総章元年(紀元六六八年)、勣に命じて遼東道行軍総官となす。兵二万を率い、地を略し鴨緑水に至る。賊、その弟を遣わし来たりて拒戦す。勣、兵を縦にし撃ってこれを敗り、追奔すること二百里、平壌城に至る。

唐は、既に百済を滅ぼしその古地を領有し、行政府を遼東半島の熊岳城に置いていた。遼東から東進し高句麗の地を侵略して鴨緑水に至った所で、高句麗軍と遭遇し戦った。これを破り、追撃して二百里(約八十Km)で平壌城に至った。

「元史巻五十九地理二遼陽等書行中書省」の中に、【 鴨緑江の東南千余里にある平壌は旧の平壌ではない 】旨の記述がある事を踏まえ、鴨緑江沿いに追撃して二百里の地となると、広開土王碑文が発見された「集安」が、唐軍が高句麗軍を追撃して至った平壌であったと考える事ができる

集案の地形を、平壌城の立地として記録されている文献と比較すると、集安は、北に山を控え、南に鴨緑江が屈曲して流れる場所であり、正に文献通りの地形の地である。集案にはまた、広開土王の碑文が存在する。高句麗の都であったからこそ、広開土王の輝かしい事績を刻む碑文が建立されていたのだ。

山形氏は、さらに幾つもの文献を挙げて、「平壌=集安」と結論している。

以上の結果から、唐に滅ぼされた七世紀の高句麗は、国都平壌を現在の集安の地に置き、国の領域は現在の遼寧省東南部(遼東半島とその北側境界域を除く)から吉林省に及ぶ領域であったことが判明した。(図8参照)

図8

つづく……

*父が自費出版をした1冊目の本*



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