第一章 : 倭人の起源 ②
*この記事は、約10年ほど前に父が書いた全6章で構成されている原稿を順番に公開しています。
<過去記事>
『日本誕生』 はじめに
第一章 : 倭人の起源 ①
参考文献・資料
三、Y染色体ハプログループの研究結果
現生人類の男達の生存競争、闘争と協調の面から、日本に居住する男達の、生い立ちを辿ろうとする試みに、Y染色体ハプログループの分析がある。
ハプログループとは、生物の持っている単一の染色体の遺伝的なDNAの配列型の集団を言う。Y染色体ハプログループの研究は、相当詳細な域にまで進んでいるようで、国際分類が二00八年に統一的に定義され、A~Tまでの二十のハプログループに整理されている。
2008年に国際的に統一されたハプログループの分岐(YHT2008)。日本列島で検出されたハプログループはグレーで示されている。
日本の男達に関し、「DNAでたどる日本人一〇万年の旅」と言う本を、崎谷満氏が著している。これは、Y染色体ハプログループの分析により、日本人を形成した日本列島周辺の男達の起源に迫ろうとする論考である。
ここから、崎谷氏の著書を参考にして、古代の倭人を形成した男達の成り立ちを推論して見たい。
YHT2008ハプログループ分類を参考として、それ以前にまとめられ、崎谷満氏の著書に記述されていたYCC2002ハプログループA~Rの分類に基づく分析等に従って、古代の倭人を形成した男達について見て行こう。
日本列島の男たちには、Y染色体ハプログループで分類される系統の内、C,D,N,Oの四系統が存在する事が分かっている。
2002年(YCC2002)として公表されたハプログループ分岐。グレーで表示されたものは日本列島で。検出されている。
2002年の「YCC2002」も2008年の「YHT2008」も日本列島での検出種は、O,N,D,Cである。国際標準YHT2008表上に示された列島検出ハプログループの分岐年は以下の通り。
C:5万3千年前、 Q:3万4千年前、 O,N,NO:3万4千6百年前、
D2:3万7千7百年前、
D2の前身DE:6万5千年前 Q,O,N,NOの前身KT:4万7千4百年前
*上の分岐図は、いずれも「DNAでたどる日本人10万年の旅」から引用。
Y染色体ハプログループは大きく次の4系統に分類される。
・ A系統(アフリカに固有)B系統(アフリカに固有)
・ C系統(出アフリカの第一グループ、)
・ DE系統:D系統とE系統(出アフリカの第二グループ)
・ FR系統:FからRまでの十三系統(出アフリカの第三グループ)
それぞれの亜型の分布は、地域的に偏った形で現れて来ている。
それは、
☆A,B両系統はアフリカに広く分布し、アフリカ固有のものとなっている。
☆出アフリカの第一グループC系統は、シベリア、モンゴル、満州に高い頻度で集中し、次いで朝鮮、次いで10%以下の頻度で日本、中国(中原)、チベット、フィリピン、ベトナム、インドネシアの各地に分布している。後に記す古代人の貿易活動の広さを形成した男達とは、シベリアからインドネシアに至るまで分布し、海洋沿岸各地に網羅的ではあるが、少しずつ分布するC系統の男達かもしれない。
☆出アフリカ第二グループD系統は、日本とチベット及びアンダマン諸島(ミャンマー南方沖、マレー半島西方沖のアンダマン海とベンガル湾を分かつ群島諸島)にだけ高い頻度で分布し、朝鮮、満州、ベトナムで、僅かに認められる分布となっている。E系統は、地中海沿岸地域に高い集積が見られる。
☆出アフリカ第三グループFR系統の中の日本列島に存在するN系統とO系統については、N系統がシベリア北西部と北欧に高い集積を示して、東アジアでは日本にのみ数%の分布が認められる。また、O系統は東アジア全域で高い頻度で集積している。日本列島には、僅かではあるがN系統とO系統の共通祖型である、より古い時代のNO祖型が確認されている。ヨーロッパにはR系統が高い頻度で見られる。特筆すべき事として、日本列島とチベットには出アフリカ3系統の、全末裔が存在するが、他の世界では2系統までしか見られないと言う事である。
この事を考えると、日本列島に移動してきた出アフリカ第一グループから第三グループの男達は、旧石器時代の極早い時期に、ユーラシア大陸のどこかで合流し、互いに協調して生活を営み、バイカル湖周辺に集住する前後の数万年の時を経て、北方系Gm標識遺伝子を共有する民族集団となっていったと考えられる。
そして、2~3万年前、何らかの事情により、最も争いを好まぬと想像されるD系統の男達による集団が、バイカル湖周辺から東へ、そして日本列島へと大移動を開始した。D系統の男達は、表で示されるようにシベリアに痕跡が残らない程に、姿を消してしまったと考える事が出来る。
その後、二万年前~一万八千年前、ウルム氷期がピークとなった頃、D系統の部族が発見した日本列島の黒曜石や、列島の自然環境の良好さにひかれて、C系統、NO祖型およびN系統O系統の男達も五月雨的にカラフト、北海道、列島各地に移動して来たと思われる。D系統の男達は、後から来たバイカル湖時代の仲間達を、過去のいきさつに係わりなく新天地に受け入れて行った事だろう。
こうして、日本列島は、世界に例を見ない、出アフリカの最も古い部類のY染色体ハプログループ第一グループから、第三グループまでの、多様な男達の子孫が観察される特異地域となったと考えられる。
ここで注目されるのは、前節において認められた、北方系モンゴロイドGm標識遺伝子の飛び地であったチベットが、Y染色体ハプログループの分布においても、D系統の偏在地として日本列島と共に浮かび上がって来た事である。
四、日本列島とチベット
Y染色体ハプログループD系統の集積地という観点から、日本列島とチベット、民族集団としての日本とチベットに研究課題を設定した論文がある。
「Y chromosome evidence of earliest modern human settlement in East Asia and multiple origins of Tibetan and Japanese populations」
(「東アジアに定住したもっとも早期の現生人類、とりわけチベット人集団と日本人集団の共通の起源に関するY染色体上の証拠について」)
中国科学アカデミーの研究者を中心とした、中国の研究者十一名と米国の研究者一名の共同研究結果をまとめたものである。この論文の結論として次の各点が挙げられていた。
【A】
D系統は、東アジアの現生人類の非常に古い系統を示しており、チベット人集団と日本人集団の間には、遠い昔の強い分岐の跡が観察された。
【B】
D系統は南方に起源があり、同系統の北方への拡散は、6万年前に起こった。
【C】
チベット人集団と日本人集団は、いずれも東アジア特有のO系統のグループと、古いD系統グループ集団が混交したものである。
【D】
D系統の、東アジアに現在見られる遺物のような分布を招いたのは、最終氷期最寒期と新石器時代の漢文化の拡張が、鍵となる要素である可能性が強い。
この論文の結論Bに、「D系統の起源は南方にある」とあるが、チベット人を南方系とする事は、科学的に困難である。Gm標識遺伝子がチベット人は北方系である事を明らかにしている。この論文の作成者達は、松本秀雄氏のGm標識遺伝子の研究結果を参照していなかったようである。
南北の起点に関する論考は別として、6万年前の拡散開始は参考にできる。YHT2008の分岐図では、D・E系統の出アフリカは6万五千年前となっている。E系統が地中海沿岸諸国に高い集積を示している事を鑑みると、6万年前にはDとEは分岐していて、E系統が地中海沿岸に広まり、D系統はメソポタミア以東へと移動して行ったと考えるのが自然であろう。
D系統の男達は、既得権維持や他集団との縄張り争いの闘争よりも、新天地の開拓を選択する傾向の強い平和主義者で、強い団結力を持った男達であった可能性が強い。
この内、メソポタミアから人々の気配の薄い、厳しい環境の北へ向かった集団は、バイカル湖から日本列島へ、より住みやすい南に向かった集団は、アンダマン諸島へと、いずれも移動通過地域に仲間を置いて行く事をせず、そろって、大陸を離れた島諸地域、または険しい山に守られた、安全地帯と言うべき所に到達して生き延びて来ている。
北方系Gm標識遺伝子の流れを観察した時、日本列島から黄海沿岸、東支那海沿岸、黄河下流域、揚子江河口域への流れを見てとる事が出来た事と、本節で取り上げた中国科学アカデミーメンバー等の研究論文の結論AおよびDの記述から、次のように推論出来るのではないだろうか。
D系統の旧石器時代人は、日本列島に渡って来た後、人口増加や気候変動等により、未だ現生人類が希薄な黄海、東支那海沿岸、黄河下流域、揚子江河口域へ拡散して行ったと考えられる。
この時、台湾および揚子江以南には、既に南方系モンゴロイドが高い集積を示していて、日本列島線上では南への進展は石垣島までで止まり、大陸における拡散は、揚子江河口域から北の東支那海沿岸部や黄河河口から下流域方面止まりとなっていた。日本列島南端の人々は、それ以上の南進は行わなかったが、黄河下流域の人々は西に進み、次第に中流域にまで進出し、それぞれの地に邑国らしきものを形成した。彼らは邑国連邦となって初期黄河文明を萌芽させ、それぞれに安定した生活を営んだ。
鉄器時代の始まりと共に、中国大陸西方から東進し、後に漢文化を形成するO系統の男達が率いる集団が、その勢力を拡張し、D系統の男達が率いる集団の邑国連邦を崩壊させ追い払った。D系統を中心とする集団の多くは、古くから交流のあった日本列島をめざして東方へ逃避して行ったが、一部の集団はチベット方面の山岳地帯に逃避して行った。
このため、D系統の子孫が、チベットと日本列島に高い集積を示し、モンゴル、満州、朝鮮にごく僅かに子孫を残すのみの、現在の特異な分布状態になったと考えられる。
この様に考えると、北方系Gm標識遺伝子の飛び地分布と、本節で取り上げたY染色体ハプログループD系の飛び地分布に関する論文の、結論ACDが整合し、合理的に理解可能となるのである。
五、中国の古代文化と神話
中国には、日本の古事記や日本書紀に記述されているような、神代の時代の物語や、古代ギリシャ、ローマのような神々の物語がない。
残されている中国古代文献資料は、そのほとんどが紀元前の戦国期以降の物であるが、そこには中原を統治した者の歴史と歴史を飾る人物の説話などが記述されているものの、神々の物語はなかった。しかし、フランスの東洋学者マスペロが、「史記」や「詩教」や「書経」などの中にある、古聖王の説話に注目して、それらが中国の神話であると指摘した。夏、殷(商)、周、春秋、戦国、それぞれの時代の歴史を記す中で、各王家の説話として記されたものに、神話が隠れていると言う事である。
こうして、古代文献から拾い上げられた古聖王の説話は、民族の神話としては、無体系なもので、漢民族の神話として一貫したものではなかった。
広大な中国では、初めから統一的な民族、統一的文化というものはなかった。それぞれの民族とその文化が消長を繰り返して来ていた。漢民族としての民族意識は、戦国と言う動乱の中から、統一へと向かう過程の中で育まれたと思われる。
そうした民族意識の芽生えが、古代の聖王の物語を以って、民族の政治的、道徳的な規範として、「詩教」や「書経」そして「史記」などに歴史物語として記述されたと考えられる。秦や漢によって統一王朝が立てられて後、漢王朝治下の中原周辺の各民族は、初めて、「漢」民族という共通民族意識を共有したと考えられる。
二十世紀になって、殷時代の遺跡から甲骨文字や卜辞、周初の金石文等が多数発見され、殷王朝や周王朝初期の王朝系譜や事跡が判明した。「史記」の記述との相違が多々見受けられ、「史記」に見られる「殷本紀」は、「史記」の編者である司馬遷の時代に広まっていた陰陽五行説や易姓革命の、革命有理の観念による創作が、多分に織り交ぜられたものである事が分かった。「史記」の記述とは違って、甲骨文字や卜辞、金石文から判明する事は、西方出身の周によって殷が滅ぼされたという事であった。
甲骨文字や卜辞、金石文の研究における、第一人者である白川静氏は、著書「中国の神話」の中で、甲骨文や金石文の資料によると、殷の最後の王である帝辛は、「史記」では暴君として記述されているが、実際はそうでなく充実した時代であったらしく、ことにその青銅器文化は、殷周を通じて最高の製作を見せていると記述している。
そして、殷は東征の虚をうかがった周族の奇襲によって敗れ、滅んだものであり、「史記」にあるような、紂の暴虐、箕子などの賢人をしりぞけ、悪来の徒を用いて国政を失ったという記述は、亡国譚として加えられた説話に過ぎないとしている。甲骨文や金石文の資料によれば、帝辛は、身に玉衣をまとい、鹿台に火を放ち、自らその火中に投じて死んだという。殷の王朝は、王が巫祝王として、みずから祭祀や占卜を主宰する神聖王朝であった。また王朝の始祖である舜は、もと太陽神であったらしい形跡がある。
白川氏は、さらに続けて、
この神聖王の死は、また同時に、古代的な神話の世界の終焉を意味した。殷に代わった周は、わずかにその始祖に感生帝説話を持つほかには、ほとんどみるべき神話的伝承をもたなかった。周は明らかに征服国家であった。しかし、神話的表象が王朝の精神的な支えであった時代は、すでに終わっている。
ー中略ー
周は殷的世界のもつ神話的な表象に対して、これに代わるものとして天命を以ってした。
としている。そして、
殷族の太陽神舜や、夏系の洪水神禹の話は、周王朝とは特にかかわることのない、古い帝王の説話にすぎなかった。それはむしろ古帝王の治績として、政治的な、また道徳的な規範を示すものと考えられた。戦国期に入ると、これら古帝王の治績は、列国の並立する天下的世界の歴史的な支柱、すなわち過去の帝王の物語として、経典の形に編纂された。
それが、一遍ごとに独立の形式を持つ「書」であるとのべている。
甲骨文字や卜辞、金石文の研究を基に、白川氏は、後漢時代、紀元一〇〇年に著された、漢字の意味と造字の由来を解説した「説文解字」が、本来の漢字の成り立ちを正しく解説していない事も指摘した。
そして、殷が創始した文字文化に、顕著に現れる東方的性格、即ち日本の民俗に通じる東方的性格に注目している。
そして殷人について、「少なくとも彼らが沿海の諸族と親縁の関係であったことは、疑う余地のないことである。」と結論している。殷は夷系の民族であると。
漢字の正しい本来の意味を、後漢時代の漢の学者は読み取れなかった。神話的表象が王朝の精神的支えであった時代に形づくられた漢字の造字の由来は、天命をもって王朝の支えとする世が千年も続き、神聖王下の風俗による発想が忘れられた後漢の時代において、千年の内に洗練され成形された字形の、象形的かつ表層的意味の関連でのみ、その由来が類推されるものとなったのである。
天照大神と八百万の神々の神話を持ち、縄文人の自然観やエモーションを色濃く受け継ぐ日本人、白川静氏であるからこそ、三〇〇〇年の時を隔てて尚、甲骨文字や卜辞、金石文の形状を観察し、その意味を読み取れたのであろう。
この事について、白川氏は、「京都の支那学と私」という講義録の中で次のように述べている。
今、私が書きました卜辞は、三二〇〇年前のものです。その三二〇〇年前の資料を、私は日本語で読むことができるんです。どこの世界へ行っても、このような関係をもつ文字というものはあり得ない。そういう関係が成立するということは、これは古代における東アジア文化圏というものが、同一の基礎体験をもつ、同一の原初的宗教、信仰というようなものをもって、そこで生活して来た。そういうものがそのまま今日受け継がれて来ている。
ー中略ー
基本的に最も重要な点における同類性というものがある。その上に東洋の文化がある。東洋の伝統がある。こういうふうに私は思うのです。
白川氏の喉元まで「倭国と殷は同根」という言葉が出て来ているが、科学者としての理性がこれを言葉にさせていない。しかし、それを確信しているさまが明らかである。
白川氏の甲骨文字や卜辞、金石文の研究によって明らかになった殷人たちについて、以下に幾つか箇条書きしてみよう。
・殷は種族的には夷系に属し、古く夷系の文化圏があった。東アジアの農耕文化圏がそれであり、日本もその圏内にある。
・殷の王朝は、王が巫祝王として自ら祭祀や占卜を主宰する神聖王朝であった。このような神聖王朝にとって自然は、神話的な世界として把握された。神霊の世界は多彩で精気に満ちている。
・風は鳳形の鳥であらわされ、それは神の使者であった。風土、風気、風俗はみなその地の神々の意思によって形成される。わが国の神がら、国がらというのに等しい。
・殷の始祖である舜は、もと太陽神であった形跡がある。アマテラスの信仰と似ている。殷では、後に両者が分離し、王は朝日を迎え、夕日を送る。太陽は、朝が東母、夕日が西母という女性で示された。
・帝の嫡子である王は、死後には天に昇って、帝の左右に侍した。神霊は垂直に往来するので、これを陟降という、それは聖梯を上下するので降臨形と呼んでよい。陟降の字形に見える聖梯は、柱に足がかりを刳りこんだものであろう。伊勢の内宮にもその柱があるという。
・即位儀礼の授霊は、綴衣という、先王の用いていた衾によって行われる。わが国の真床覆衾にあたる。
・神事では、特にけがれを避ける。みそぎとは身を清めることで、南方の俗とされるが殷代にも行われていたことである。
文身の俗も殷人にあった。「文」という字自体が、人の身体に絵柄等を描く事を意味する象形文字であったのだ。倭人も文身の俗をもっていた。
白川静氏の甲骨文字や卜辞、金石文の研究結果からは、数え上げればきりのない、倭人と殷人の類似性が判明し、否が応でも、殷人の風俗と倭人の風俗の、基本的に最も重要な点における同類性が浮かび上がってくるのである。
また、殷の神話の中には、太陽は十あり、交替で空をめぐり、それぞれの太陽に甲、乙、丙、丁など十干の名があり、それを司る十人の神巫が居たと言うものがある。そしてある時、十の太陽が同時に出て照らしたため、人々は大層な苦難に陥った。
この時、夷羿が帝の命により九つの太陽を射落とし、人々を救ったという説話が伝えられている。本節に記した白川氏の研究結果および夷羿の説話と、前節までに記述した遺伝子研究によって判明した民族移動とその分散の軌跡に基づいて、Y染色体ハプログループD系統の男達を含む北方系Gm標識遺伝子をもつ集団の、古代における拡大と分散の歴史仮説を以下のようにまとめてみた。
日本列島から、中国大陸沿岸部、黄河下流域に進出した北方系Gm標識遺伝子をもつ集団は、Y染色体ハプログループD系統の男達が巫祝王となって率いる十のグループで構成され、協調して輪番で、黄河河口域から下流域を統治していた。
ある時、今から四千五百年程前の寒冷化が進行する中で、天候不順、干ばつなどが長く続き、協調の足並みが乱れ、各グループとも利己的となり、輪番制は崩壊、乱が発生した。
この時、夷羿が九つのグループの巫祝王を黄河流域から追い落とし、乱が収まった。夷羿に追われた九つのD系巫祝王が率いるグループは、先祖のゆかりの地である東方の地、日本列島にまで逃げ帰った。恐らく彼らは日本列島に住むD系集団との交流を、何千年も続けていたのであろう。
そして彼らが自分たちと同じ祖先の出であることを知っていたのだ。だからD系の男たち九集団は、丁度第二次大戦後に、日本人のほとんどが満州から引き上げたように、日本列島を目指したのだろう。
一つの太陽、即ち一つのD系統巫祝王嫡流家及びその傍系と、他の九つの巫祝王の現地混血母系集団(Y染色体ハプログループD系統を受け継がない、巫祝王の娘を核にした集団)が大陸に残ったと思われる。後に殷人を形成する彼らが、次第に黄河下流域から中流域に勢力を拡張し、その地にあった「夏」王朝に取って代わる「殷」王朝を建てたのだろう。殷の巫祝王が占いに使用した象形記号は、年と共に洗練されて文字となった。後に殷王朝は、臣下の礼を表していた西方の部族、周に滅ぼされた。
その時、殷王朝形成に協力してきた夷系の母系九集団は、当時、倭と呼ばれていた同族九グループが安定した生活圏を形成する東方、すなわち日本列島を目指して逃れ、殷のD系を中心とする一族は崑崙(チベット地方)方面に逃れ、隠れ住んだのだろう。
これがチベットD系統集団として今日に至ったものと思われる。
また、古代文献には、周に滅ぼされる直前、殷の王族の一員であった箕子の一団が東に逃れ、朝鮮を建国したと記録されている。おそらく箕氏は、殷王族の母系子孫の集団であって、Y染色体D系統を継承する集団ではなかったと思われる。しかし、遠い昔の本家筋の人々が既に地盤を固めている九グループの地には、さすがに逃げ込めず、彼らの西隣(満州東部)に自らの国を興したのであろう。
白川静氏が指摘した、殷人と倭人の、基本的に最も重要な点における同類性と、中国科学アカデミーの研究者らが指摘した、日本人集団とチベット人集団における、遠い昔の強い分岐の跡は、このようにして発生したのではないだろうか。
いずれにしても、日本人とチベット人の遠い昔の分岐は、殷の建国と滅亡のそれぞれの時期に発生したと考えるのが、Y染色体ハプログループD系統論文に対する合理的説明と考えられる。
また白川静氏は、
周、秦はいずれも出身地が同じで周が洛陽に東遷した後は、秦がその地を占めた。遠い西方の文化が草原と砂漠を越えて周、秦、中国に影響を与え、西方に対する神秘な想念が、やがて西王母説話を発展させた。神々の世界が、西王母の住むと言う崑崙を中心に展開される。
と記述している。
先述の仮説を適用すると崑崙は、Y染色体ハプログループD系統の偏在するチベットであり、そこには、太陽神を信仰する神聖王の王族と彼らと行動を共にする集団が住んでいる所ということになる。
殷時代も時を経て、太陽は朝が東母、夕が西母として信仰された。そこで、神々の世界が、西王母の住むと言う崑崙を中心に展開された理由は、単に西域からの文化の流入という西方への神秘性だけでなく、太陽神の子孫と言われる神秘的な神聖王とその一族が住む神々の地であったことが、大きな要因となっていたからではないだろうか。
繰り返しになるが、夷羿によって黄河中下流域における居場所を失い、東に逃避した太古の倭人達の内、D系統の男達のほとんどが日本列島に逃れた。
27時代が下って、殷が滅ぼされた時、チベットに逃れたグループではなく、東に逃れた殷の賢人箕子は、遼河を挟んだ遼寧省の北東部地域に邑国を築き、「朝鮮」と号した。
この朝鮮国は、前漢の武帝に滅ぼされるまで存続したのだが、満州、朝鮮半島に、ほんの僅かに分布するD系統のY染色体は、こうした出来事の名残であろう。さもなくば、明治以降の日清、日露戦争による日本の拡張の結果の名残なのだろうか。
また、共に逃れたであろう現地混血の母系の男達のグループも、一部は日本の九州方面へ、大陸においては、周の勢力圏外で、倭人の生活圏として安定していた山東半島の対岸、遼東半島や鴨緑江下流域および朝鮮半島に落ち着く事となったのではないだろうか。
一方、揚子江河口方面に展開した太古の倭人達の周辺は、黄河流域に展開した倭人たちのように、自らの邑国連合を形成出来る状況にはなかった。既に南方系モンゴロイド達が強固な生活圏を築いていたため、先住者に逆らわない従属的なコロニーとして、東支那海沿岸部に点々と拠点を持つ形になったと考えられる。
倭人達のコロニーは、強固な南方系先住邑国連合と、出身地である列島南部の倭人達との交易基地として、その存在を維持し、それなりの繁栄を謳歌していたのではないだろうか。
そして、殷が滅ぼされ周の安定を見た時、揚子江河口および東支那海沿岸部の倭人コロニーの代表は、日本列島南部の倭国大王の意をくみ、越と共に周にご機嫌伺いの使いを出したのかもしれない。後漢時代の文献「論衡」に
「周時天下太平、成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢す」と記録されている。
「越は献じ、倭は貢す」との表現は、長江地域の越に従属的な倭人コロニーの性格が、そのまま周への態度として反映したものであると同時に、殷と遠縁に当たる倭が、周に従属した事を明確に示す表現であったと思われる。
なぜかと言えば、「献」と言う字は、「敬意を表して奉納する」の意であり、「貢」は、「服従を示し権力者に金品を差し出す」意であるから、越と比べて倭が相対的に下位に表現されているため、それが時の情勢に整合する分析と考えられるからだ。
成王の時とは、紀元前一〇二一年から一〇〇二年頃とされているので、今から三千年程前の出来事である。第三章に記す縄文倭人達の活動や、行動力を考えると、周朝初期の出来事として、倭人の記録が登場する事は、少しも不思議な事ではない。周王朝創立に大功のあった時の燕王が、倭と越の両勢力が周朝に恭順の意を評したことをもって、周王朝の安泰を確信し、安心して死ねると言ったという趣旨の記録があるという。
つづく……
*父が自費出版をした1冊目の本*