音楽に渇いている濱めぐクリスティーヌの話をしよう。

クリスティーヌの中には愛と音楽があふれていると思ってるんだけど、濱田さんクリスティーヌのそれはこんこんと湧き出る泉のようで、平原さんのクリスティーヌのそれはぐるぐると渦巻くマグマのようだと思う。
というようなことを前にツイッターで言ったんですが、まあそれについてです。

○自分のなかの音楽に気づかないクリスティーヌ
濱田クリスティーヌは愛も音楽も自分の中にあることに自覚的でないというか、あまり意識してないように見えた。彼女にとって愛や音楽は相手があって初めて引き出されるもので、誰も求めなければ彼女自身にも触れられない、そんなあやふやなものとして在るのかなって印象。彼女が愛や音楽に触れるためには呼び水が必要なんだって思った。そういう意味では泉よりも地下水のイメージのが近いのかもしれない。地下水は根を伸ばしたり掘り当てたりしてくれる存在があって初めて大地を潤すもので。誰も求めなければ、アプローチをしてくれなければ、彼女の心も潤されず乾いたまま。彼女のなかには尽きることのない泉が確かにあるのに。そんなイメージ。
たぶんここが、彼女のクリスティーヌに「弱い」女性を見た理由なんだと思う。自分が求めているものにも自分が持っていることにも無自覚な、あるいはわかっていて無意識に目を逸らして抑え込んでいる姿が「弱く」見える。それはたぶん傷つけたくない存在を持っているが故の弱さで、母親であることとイコールなのだと思う。大切な存在のためならその人を嫌がることでもやり遂げてみせるランダムスター夫人には持ち得なかった「弱さ」。
濱田さんクリスティーヌ、求めたら破滅すると思ってるんじゃないかってくらい彼の音楽に怯えるんですよね。彼女にとって家族への愛と音楽への愛は両立しなくて、片方を守るためにはもう片方を捨てなきゃいけないものなのかな、と思う。両方を取るって発想はないんですよね。手を伸ばすための一時でも、今持っているものから手を離すのが怖いみたいに。もう一度潤されてしまえばきっと、彼女は音楽に抗えないから。

○ラウルの愛が彼女を繋ぎ止めている。
濱田クリスティーヌにとってのラウル、"ここにいる"ために必要な存在なんじゃないかなって思う。彼女は独りでは音楽に囚われて、「自分が自分でなくなってしまう」から。
私ね、1幕のホテルで玩具を片したクリスティーヌがこの場にいない夫に縋るように呼ぶ「ラウル、」が本っ当に好きなんですね。ラウルがクリスティーヌに縋るばかりではなくクリスティーヌもまたラウルを必要としていると示してくれているような気がして、この10年できちんと絆が育まれていたんだって救われた気持ちになるから。
同時に、クリスティーヌは「彼の音楽」から逃げるためにラウルを求めているのかなって気がする。10年前、あのオペラ座の地下室から彼女を連れ出してくれたように。 10年を経てクリスティーヌにとってのラウルは愛しているけど疲れる相手になってしまっている印象を受けたんですが、それでも彼女を現実の世界に留めておいてくれる錨みたいな役割は変わらないままなのかなって思う。

○それでも音楽の美しさには抗えない。
2幕、クリスティーヌの願いに頷いたラウルが楽屋を去り、その彼を追って部屋を出ようとしたクリスティーヌにファントムが歌いかけるシーン。
彼の歌声を聞いた瞬間に彼女の気配が変わる。怯えながらも憤りを見せていたはずなのに、その警戒を解かれるように瞼が下りて口元が綻んで恍惚とした笑みを浮かべるんです。そのまま歌声に誘導されて鏡の前に歩を進めるクリスティーヌをグラスなしで見たら、つい、と糸で引っ張られているような不自然な歩みで。ああ彼女は自失状態にあるんだって気づいた。
理性も絆も吹き飛ばして魅了する圧倒的な力。濱田クリスティーヌにとって、「彼の音楽」はそういうものなのだと思う。そして10年前、手を繋いで現実に留めてくれていたラウルはここにいない。それじゃあもう、飛ぶしかないじゃない。

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