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第5夜 ナレーションは教わってないはずなのよネ
私は女帝と呼ばれる女のその腰に手をやって、ゆっくりと揉んでいた。
固い。声業界の女帝の背負うものを感じずにはいられぬコリだ。
しかし、私は手をゆるめるわけにはいかぬ。
不可能を可能にしてき女からなにかを引き出すのに、ただでとはとてもではないが言えぬ。
私は自分の気持ちを伝えるためにも、しびれきった手を押し込むようにして、揉む。
教育が足りない
「先生…新人がなんとかマネージャーの信頼を得ても、それでもまだ立ちはだかる1枚目の壁とは、一体なんなのですか」
「養成所からあがってくる新人…にはネ…決定的に足りないものがあるのヨ……んぐ」
「足りないもの?」
「あグ…そ、それはネ…。きょ…教育…だわヨね……ンぐ」
教育が、決定的に、足りない…?
私は必死に、己の養成所時代を反芻(はんすう)する。
「教育…わかりません。養成所は教わる所のはずなのに教育が足りないというのですか?僕が教わってきたものはたくさんあるはずだと思うのですが…先生、どうかきっぱり言ってください」
「じゃ逆にきくわよ?山ちゃんはナレーターになりたいのよネ?”ナレーション”は、教わった?」
疲れで眉毛のあたりにたまっていた汗が一気にこぼれおち、目に入ったのは偶然ではない。
それは私があまりにおどろいて目を見開いてしまったからだ。
しょっぱい汗が目に入り、まぶたを開けていられぬ。
「そういえば僕は…演技を教わっていました…。二度目の養成所ではアナウンスを教わっていました…」
「その通り。ナレーションは教わっていないはずなのヨ」
《やること》を用意してもらいたかっただけなのかもしれない
様々な思いが押しよせ、私はもう、腰を揉む手を、止めていた。
私はナレーションを志していながら、ナレーションそのものは教わっていなかったのだ。俳優が、アナウンサーが、そのままの手法でナレーションを成立させることができた時代ではもはやないのに。
演技・アナウンス・DJ・落語など、すべてが混ざりあった「新しい表現の場」がナレーションと、言える。
だが例えば私の場合、アナウンスの要素の強い二度目の養成所で、私の演技的な表現を「だめなこと」と切って捨てられたことが思いあたる。
そして私の経験の逆のパターンもたくさんあることは、アナウンサー出身の知り合いから必ずといっていいほど聞いている。
こんな事に10年も気がついていなかったとは…
すべてが無駄とは断じて、思わぬ。
だが、あまりに遠回りだったではないか。いや、それも当たり前か。私は誰かに《やること》を用意してもらいたかっただけなのかもしれない…
レギュラーをもってる先生、ほとんどいないもンね
「でもま、それも仕方のないことだけどネ。ナレーションの教育って、まだ確立されてないんだモン」
私の気持ちを察してか、それともただ億劫(おっくう)なだけか。
極細木はうつぶせのまま、顔もあげずに言う。
「テレビナレーションのレギュラーをもってる先生、ほとんどいないもンね。テレビは流行があって成り立つもの。流行にちゃんとついていけるプレイヤーで、さらに先生まで出来る人なんて、それなりの人脈なしには見つけれないわヨ」
「僕の先生も、テレビでは見たことがない人でした…。だからテレビで憧れるプレイヤーの真似をしても良い評価をされなかったです…。結局、古典の朗読をして…」
「そうね。朗読のうまい下手と、番組におけるナレーションとは、まったく違ったものよね。なのに古典の朗読やアナウンスを『これがナレーションだ』と言って教える講師は多いワ。その事情も理解できるし、それはそれとして学ぶ事は問題ない。ワタクシ達だってアナウンスや朗読は本当に素晴らしいと思っています」
「でも、ビジネスの観点を持ってプレイヤーに接しなければならないワタクシ達には、朗読やアナウンスの評価だけでは、すぐに事務所に所属させる動機にはならないワ。前に言った養成所講師とマネージャーの不仲はね、こんな所で起こるのヨ」
女帝はうつぶせのまま、少し体を揺らす。
問題点は
「問題点は、『テレビの環境や価値観なんてわからなくてもよい』という姿勢よね。朗読はうまいけど、マイクを使ったとたんにプレイがダメになることだってある。養成所しか知らない人がテレビのスピードについていけないことが多いのは、山ちゃんならわかるでショ?」
「それは、よく理解できます。テレビは尺が決まっているわけですから‥」
「従来の講師がその考えでいる限り、現状の『養成所を出たはいいけどどうすればいいかわからない』というジプシーたちには希望がないわ。営業にいく術もわからなければ、せっかく磨いた自分の技も発揮できないじゃない?これは苦しいわヨ…私はネ、プレイの良し悪しと、テレビで売れるかどうかについては、必ずしも一致しないと思っているんだけどネ」
わかっている人だけが食べていく事ができる
私は思い起こす。
これまで私が好きだったテレビ番組を担うナレーターたちを。
そのほとんどのプレイヤーが、覚悟の上で基礎のタブーを破ってきたものたちであったことを。
「きちんと【ナレーションをわかっている人だけ】が食べていく事ができる。これだけは間違いのない事実なのヨ。ワタクシ達はプレイヤーじゃありません。でも、だからこそ、新人を食べさせてやれるかどうかについては講師陣よりも、リアルにとらえているのヨ」
「既成の”ナレーション教育”には、まだまだ問題点がたくさんあるワ。まったく新しく”ナレーションを教える場”が必要になってきた時代だと私は思うのヨ」
私の目から溢れでてはこぼれる涙。
あいかわらず口にはしょっぱいが、さっきよりも温かみを増しているのはなぜなのか……
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