vol.1ナレーターあおい洋一郎 『自分の胸にきけ』
あおいの人生には、何度もエッジな局面があった。それを知るものは少ない。
民放テレビ局ではかつてなかった、月〜金ゴールデンタイム帯の報道番組。「番組のカラーを決める」とまで言われるナレーター選考には、3年に一度あるかないかの異例のオーディションを決行、300名以上もの候補者が集まった。この選考に勝ち残った男がいる。
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今では大型報道番組のメインナレーターでありながら、他局の報道番組でも看板特集企画に呼ばれている。不況とともに吹き荒れる報道界変革の嵐。そのまっただ中にいるナレーターの一人である。
だがあおいの人生には、実は何度もエッジな局面があった。それを知るものは少ない。
『俺はこれまでいくつもの岐路に立って来た。でもその度に悩みながら”本当はどうしたいのか”常に自分の胸にきいて決断して来た。それはナレーション表現でも同じかもしれない』
本インタビューのタイトルは、あおいが大切にしている言葉からとられている。 「自分の胸に聞け」。
「売れっ子なりの不満」を感じていた、名古屋時代。
あおいのルーツは名古屋にある。進学校の優等生だったあおいは、ジェームス・ディーンにあこがれ演劇の道へ。
数々の主役をとり、やがて名古屋制作の看板番組「中学生日記」の先生役を射止める。名作として名高い映画「橋のない川」はその後のあおいの代表作のひとつだ。
『だから、ナレーションにも自然と出会ってたんです(笑)
テレビ局の人が僕の演技を見に来てくれて「ちょっとやってみてくれないか」って声かけてくれてね。はじめてのレギュラーは地方のバラエティ番組だった。そのオンエアをみて、また別の人から声をかけてもらったり。だからよくある苦労話を求められると、正直ネタがなくて(笑)』
気がついたらナレーターも始めていた。若い時は幸運が向こうから勝手に飛び込んで来たのだった。
プレーヤーとしては順風満帆。
だが、あおいにも想いがあった。
『ずっと”不満”があったんですよ。たとえば…NHK全国区のテレビドラマに出演した時「地方の人間は東京の役者の脇を固めるのが仕事」と。…やっぱり、悔しかった」
30歳直前。
あおいは上京を決意する。
せっかくの成功を捨てることは怖くなかったですか?との問いには
『俺は無謀だけど、臆病だから、勝算がないと動けないんです。自分の中の可能性を信じられたから、出て来れたのかもね』と笑った。
スクリーンに映る己の姿をみて、再び ”過去を捨てた”
積み上げたものを自ら振り捨ててまでやってきた東京で、徒手空拳の演劇青年は、世間の広さを思い知らされていた。
とんとん拍子に上っていた階段が、急に途切れたような日々。
知り合いの劇団などに顔を出しながら、生活のためにイベント司会の仕事を細々とこなしていた。
そんな中小規模作品とはいえ映画の主役クラスに抜擢された。東京での成功も目の前に思える手応えだった。
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『直感的に”悟った”んです。この役者は、売れないと』
自分の胸に聞いた。
役者はもう辞めよう。
思い続けた道を、捨てる覚悟を決めた瞬間だった。
空っぽになった気持ちの中、一つだけひっかかることがあった。
なにげなくこなして来た仕事のひとつ。でも気になってしかたがない。『これに賭けてみよう』 もう30代半ば。何度目かの”やり直し”だ。最後に残った希望。それが『ナレーション』だった。
この頃、あおいと同年代のライバル役者たちがいる。
古豪の劇団出身で、いわばエリートたち。
しかし演劇で食い詰めた彼らも、あおいと同じくイベント司会で食いつないでいた。
そんな彼らも表現の場を「テレビナレーション」に求め始めていた。
ライバルたちに半歩遅れてあおいも、知り合いのツテですぐに声専門の事務所に所属する。しかし…
1年もたたずにすぐ辞めた。
『実際に仕事をしたのは数ヶ月に1回くらいだった。事務所に文句つけたかった。でもやめた本当の理由はね・・・自分でサンプルをきいて、自分でダメだと思ったから。自分の胸に聞いてみたんだよ。これでトップナレーターと渡り合えるのか、と』
『俺は夢を追いかけて生きるタイプではないんです。職業としてやる以上、食っていけないならどうしようもない。それを実現できる方法を探すために、フリーになって、いっちょやってみようと思ったんです』
フリーになったからといって、現実はそうそう容易いものではなかった。
ナレーションで生きていこうと決意したものの、生活のための仕事であるイベント司会からは抜け出せずにもがいていた。
その頃テレビからは、少しづつ売れだしていた「ライバルたち」の声が、番組やCMで脚光を浴びていた。
半歩だと思っていた遅れは、やがておおきな差へと広がっていた。
『すべてを捨てることで生まれ変われるんです』
それから数年。何度かの事務所所属とフリーを経験しながら、あおいは現在ベルベットオフィスに在籍している。
そのきっかけは2007年にフリーになったことを機に、「スタジオバーズ」に、一般のナレーターとしてボイスサンプル作りの申し込みをしたことだった。
深みをもちながら透明感のある声と、歌うように滑らかなストレートナレーションに、ベルベット社長である義村が注目。
義村はあおいの次なるステップへつなげるマネージメントを提示する。
『小さな仕事をぜんぶ切っていきましょう』
細かな仕事をつないで生きて来たあおいにとって、それは理解できない驚くべき提案だった。
『いったんすべてを捨てることで、また生み出すことができるはず。ゼロに賭けましょう』
義村の言葉に、あおいが動いた。
自分の足で地道な営業を繰り返した。
”名古屋のスター”をふっ切った時だった。
その結果はやがて現れた。
あおいはバラエティのレギュラー、大型環境特番などを次々にゲット。
その勢いで報道番組の重要なキーとなる特集コーナーを担当していくことになる。
それが不況のテレビ業界の、生き残りをかけた切り札「社会派ドキュメント」につながって行くのである。
『新しい報道の波』そのビッグウェーブに乗る一人としてあおい洋一郎がクローズアップされてきたのであった。
そして現在、「ライバルたち」はどこへいったのか?
彼らのその声は時折耳にするが、テレビ業界の中でその名を知るものはいなくなっていた。彼らはいまもイベント司会で食いつないでいるのだろうか…
ベルベットの義村はこう考える。
『売れていなくても、才能のある人たちがたくさんいることは知ってるよ。いま売れているトップ達でさえ、数年後の姿は分からない。この業界に携わる人はみんなエッジに立って生きているんだ。幸運に恵まれるかどうかは「あと一歩の何か」を超えることが出来るかどうか。それには”勢い”が大切なんじゃないかと思う。実はあおいさんがすべてを捨てることで、伸びていく勝算はあったんだ。あとは勢いさえあれば、芸能の女神が微笑んでくれるはずってね』
あおいが表現する読み。
その声には、自らの足でエッジにたつ者だけが持つ「覚悟」の響きがある。
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