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vol.2ナレーター畠山里美 『場をつかむ』

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天職だと思っていたものを突如失った。

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地方局アナウンサー出身。
ナレーターに転向してからは、ニュースステーションなどドキュメントを中心とした「ストレートナレーション」で活躍してきた。

彼女はナレーターでありながら、鍼灸師の国家資格も持つ。スクールバーズでは東洋身体論の知識を発声に応用し、基礎を充実させている。

「私にとって、ナレーションも治療も「表現」に通じるものがあるんです。声も身体の一部だし、”身体を入り口に心にもアプローチできる”と思っています」

10年前。
畠山がナレーターとしてもっとも多忙だった時期に、突然の病が彼女を襲った。

意識とは無関係に、声を出すことが困難になる。それはずっと天職だと思っていた『ナレーター』であることを断念しなければならないことであった。

ナレーター畠山里美。彼女がみつけた「inside OUT」。

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『インフォメーションじゃなくて「表現」をしてくれ』がーんと、きた。

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東京の学校を卒業後、地方の局アナウンサーに。読みの技術はここで教わった。だがアナウンサーは局に勤める”サラリーマン”。ずっと現場にいることはできない運命。「声の仕事を続けていきたい」と3年弱で局を離れた。


20代半ば。夢と、ちょっとの貯金を持って再び上京。
右も左もわからず、先輩のすすめで事務所に所属した。

『事務所はいくつか仕事を振ってくれて助かったのですが、イベントMCや顔出し中心。”声の仕事”を学んできた私にとっては、それらの仕事は別業種でした。厳しかったです、それは本当に。いままで学んできた読みの技術が上手く行かせないジレンマ。特にオーディションは、若くてキレイなコがたくさん並んでて…ほんっと絶望的に悲しかった!(笑)』

ここから抜け出すため、彼女は猛勉強を始めた。
インターネットもない時代。毎晩テレビやラジオで「声で仕事」しているプレイヤーを調べ続けた。聴けばその一言で、誰か、どこの事務所か、どれくらい売れているかまでわかるようになったという。

その後、声の事務所に入るがそこも解散してしまう。再びなすすべをなくしていたその時。幸運にも大手事務所に潜りこむことができた。その大手事務所が分裂で一時的に人材が足りなくなっていたからだ。タイミングが良かった。ようやくたどりついた「声で勝負できる」土俵。

そんなある日の、ドキュメンタリー番組の現場だった。
ディレクターから一言『インフォメーションじゃなくて、表現をしてくれ』

「がーん」と、きた…

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『自分の表現を探さなきゃ』

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「”それまでの現場”は”それまでの読み”でOKをもらえていたんです。でも表現の現場では通用しなかった。”インフォメーション”といわれる仕事でもそ こそこの量をこなせていたし”なによ別にいいじゃん”とも思ったんですが(苦笑)
私はインフォメーションという一種類の表現しか知らなかったんでしょうね。その時の私は読んではいたけど”その場をつかんでいなかった”んです」

「いくつかの仕事を経験して”え〜っ!ナレーターってこんなにあっさり交代させられちゃうんだ!?”と思いました。それはすごく仲のいいスタッフでも、予算さえあれば、有名なプレイヤーをあっさりキャスティングしていく。これはとてもショックでした。一人で勝負していかなければならない、ナレーターの世界の厳しさを痛感した時だった。だから『自分の表現を探さなきゃ』と。自分の表現で『場をつかむこと』がナレーターの仕事だって気づき始めたんです」

ナレーターの発声「ナレーション=自分の表現」についてはじめて考えた。しかし方向が見えてくるには、多くの時間を必要としたという。

ナレーター畠山里美,講師,スクールバーズ,ナレーション専門スクール,報道,ドキュメント,アナウンサー,『まず、”立ち位置”がわかっていなかったですよね。モノローグ風の読みやバラエティの読みでは立ち位置を変えなきゃいけないのに、何でもインフォメーションの立ち位置でこなしてしまってたんですね。でもそれだけでは「ただ一つの表現」だし、伝えきれなかった」

アナウンサー時代からつちかってきた自分の読み、それを嫌いになった。

畠山は「自分だけの声と表現」を確立すべく、模索をはじめる。

「自分の気持ち」で読めるようになるため、「無理して出していた高い声」を封印した。それは本当の自分でない声=裏声だと感じたからだ。これまでの自分を否定しなければ前に進めないと思った。

「ニュースステーション」がヒットし時代を代表する報道番組になっていた。ナレーター畠山里美はそれにあわせて、もっとも多忙になっていく。

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心と身体はつながっていて、
その先に声があるんじゃないかな

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仕事があふれる多忙な日々。この頃から少しずつつ、畠山に病が進行していた。

「機能性発声障害」。意識とは無関係に、突如喉に違和感を覚え、声を出すことが困難になる。現段階では、原因も治療法も見つかっていない。実は、声業界には、同じ苦しみをもつ人が少なくないという。

「ナレーターとしてその時は仕事がたくさんあった。でもその正体はただ事務所に仕事を入れてもらっている状態で、一本仕事をこなしては、またなくなってしまう。仕事も生活も足踏みしているかのようなストレスフルな状態。仕事自体は大好きだった。でも常に喋れないかもしれない不安とも戦っていたんですよ。今になって思うと、いままでの自分の読みを否定するあまり、発声に必要な筋肉を偏って使っていたんだと思う。心と身体はつながっていて、その先に声があるって思うんですよ」

これらの経験が、後に発声について洞察を深めた理由のひとつになる。

とにかく突然、声が出しづらくなる。音程もとれない。と思えば、急に何事もなかったかのように話せる時もある。そんな状態を隠して仕事をしていることが苦しかった。ついには番組の降板の過酷な現実に直面した。

音声の名医を訪ね歩いた。代替医療、鍼灸、ボディワーク。藁にもすがって霊能者の元へも駆け込んだ。
だが…

「結局、”人に頼っていてはダメだ”と思ったんですね、自分で直すしかない、と」
失礼を承知できいてみた。ナレーターをやめようと思わなかったのか?
「とってもしんどかったけど、なぜか辞めようとは一度も思わなかったですね。それよりも天職だと思っていたことを、ある日急に奪われた訳ですから…そこに”なにか意味があるんじゃないか”と」
”なにかの意味”を探して、畠山は再び起き上がり、三たび学びはじめた。

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現実とちゃんと向きあって、
自分の中での本当の価値を見つける

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ナレーター畠山里美,講師,スクールバーズ,ナレーション専門スクール,報道,ドキュメント,アナウンサー,東洋医学の勉強を通して自分を見つめていくこと。それは声が出ないナレーターとしての現実と向きあうことだった。

「たとえば声業界の知り合いに会った時、会えば必ず『仕事がない』『事務所が仕事を振ってくれない』という話になっていくでしょう?そんな時「現実とちゃんと向き合いなさいよ」と言いたくなるのね。いつも仕事を待っているだけで、悶々と何かを待っている毎日は不健康です(苦笑)」

「そんな風にならないように、私は私だけの価値観を持ちたい。自分の人生は、自分で引き受けようってね。それは以前のように、末端でナレーターとして”使ってもらう”のを待つのではない。同じ仕事をするのでも、自分の価値を認めてもらって仕事にのぞみたかった。たとえ売れていても、なんだか足踏みしてい るかのような、昔の状態には戻りたくないんです」
畠山の失われた10年は、『自分の中での本当の価値』を見つける旅だったのかも知れない。

10年が経ち少し声が戻ってきたころ、畠山のもとにある人物から連絡があった。それはスクールバーズの設立準備に奔走していたベルベットオフィスの義村だった。同じように義村もナレーターのありようを模索していた時期だった。

義村「新しいスクールの講師を、お願いしたんです。でも2度3度と畠山さんからは断られて…。私は教えることに向いていない。義村さんは私のことを分かっていない、ってね。でも僕には確信があった」

「私は知っています。声が出なくなったこと。そしてその絶望を乗り越えてきたこと。声が出なくなっても、現場がずっとあなたを愛し支えていたこと。それらは表現者として、講師として、伝えられる大切ななにかであることを。私は知っています」
義村は畠山にそう伝えた。

もっとも過酷な時期、それは病をおして通い続けた現場。その時スタッフ達は、何も言わずフォローにまわってくれていた。畠山の人柄を知って、その上で支えてくれていたのだ。懸命に仕事と病に向き合う姿が、その場をつかみ心をつかんでいたのかもしれない。

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戸惑いの中で生きていく。
研ぎ澄まされていく「自分の表現」

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畠山は学びの10年間を越え、教え始めた。身体論をベースに表現をうながし「場をつかむこと」を伝えている。

「おそれ多いことで教える側にたつことは不安でした。でもこの経験は私にとって、とても重要なものとなりました。新人たちのさまざまな試行錯誤や乗り越える瞬間に立ち会わせてもらえることで、私自身がどれほど学べているかわからない。謙遜じゃないですよ」
ともに学んでいく「場」。教え伝えることが、畠山のもう一つの学びになった。

「鍼灸治療のこと。ナレーションのこと。教えること。実は今も戸惑いの中にあるんです。このインタビューもね(笑)でもこのステップを越えることで、また新しいものがつかめるんじゃないか、と」

2009年6月。

古い馴染みのスタッフに声をかけてもらい関わった作品が、ギャラクシー賞を受賞した。畠山のナレーションが再び「場をつかんだ」。

葛藤と学びの繰り返し。その中で研ぎ澄まされていった、「自分の表現」。それは、自分の人生を自分で引き受けることが出来て、初めてつかめるものなのかもしれない。

畠山は今日もピンとのびた背筋で、仕事に向かう。

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