記事タイトルは必須なのですか?(二日目)
何日チャレンジみたいに書くものなのかどうかはわかりませんが、noteさんが「今日書けば2日連続!」と表示してくるので、「さて…いつまで続くものやら」と思いつつ、二日目の記事を書いてみます
毎日続けるっていうのは……ちょっと無理ではないかな
寝坊するときも普通にあるでしょうし
私は朝4時に起きて洗顔歯磨きのあと、飲み物を用意してからパソコンに向かうか、もしくはパソコンを立ち上げないときは携帯で音楽を聴くか、というルーティンが好きでして
今はこうしてパソコンに向かい、noteにとりとめなく書き散らしながら、間接的にモニタの向こうにいらっしゃるどなたかとコミュニケーションを取っているつもりで、日記なのか何なのかわからない文章をこしらえています
あ、パソコンに向かっているときも音楽は聴いていますよ
いずれの場合もヘッドフォン愛用してます(余談)
昔ブログをやっていた頃は、はてなブログを使っていましたね
今はいろんなコメント欄が荒れている印象が漠然とあり、ちょっと怖い場所のイメージを勝手に持っているのですけど、強いてプラスの面を挙げるとするなら、不特定多数の人々にとっての価値観で、活発に意見交換できる場になったということでもあるのかな、と
コメントが来る、反応があるというのはありがたいことなのかもしれませんが、反面、どう返すかを考えると、単純に言葉での交流や会話での意思疎通とは違う、文章ならではの難しさを感じます
相手の表情が見えないだけに、相手の言っていることの意図も読み違えるかもしれませんし、自分の言いたいことが的確に相手に伝わっているかも確認しようがありませんし
そういうことを考えていると思い出すのが、以前、ちょっと引っ込み思案なところのある友人が、「文章は苦手、文字は冷たい」と言っていたことです
いくら柔らかい表現を使っても、視覚として知覚できるのは文字であり、只の文章ですものね
むしろ柔らかい表現だからこそ、却って事務的に感じられる場合もあるかもしれません
内容的に、当たり障りないことを言っている場合は特にです
その子は絵文字や顔文字を多用します
文字主体のコミュニケーションが増えた今の時代に、彼女なりに馴染もうとしているんだなと思っています
ところが、絵文字や顔文字のないこういう文章も、彼女は小説でなら読むのですよ、それもかなり積極的に
私の書く、このようなとりとめのない文章も、括りとしては小説と同じ創作物になります
ですが、読んでいても小説とは違い、感じられるものは伝えようという人の意思だけであって、別に想像力をかきたてられるわけでも風景が見えるわけでもないわけで
ということは、「彼女が怖がっているものは、冷たく見える文字そのもの」ではなく、「文章の向こうにある人の意思」なんだろうな、と当時の私は思ったものです
人の意思そのものと化した文字や文章が氾濫しまくっているSNS全盛期の現代、彼女もXをやっていることは知っていますが、いったいどう対処しているんだろうな
伝えたい側の声って、基本的に大きいと思うんですよ
戦闘力、ではなく意志力、みたいなものが数値で表されるとするならば、「それはバズってる呟きのイイネやリツイートの数では?」と思う人けっこういそうですけど、それは共感や同意を表す数値であって、実はバズってる呟きの意志力そのものは案外そんなに高くないのでは? と思っています
人ってけっこう天邪鬼で、「伝えたい!」と思っていることほど皆スルーするものじゃないですか
なぜかというと、その「伝えたい!」という意思そのものがウザいからです
「声がデカい」というのはそういうことです
うるさい人見かけたらなんとなく避けますもんね、普通のことです
(まあ、そのうるさい人が面白く踊り狂い、なにかしら叫び散らかしてるならちょっとした人だかりができるんですけど)
声が小さい人、ボソボソ喋る人っていうのも避けられるんですよね
じゃあ、人がもっとも耳を傾けるものって何かなと考えていくと、実は「その人の秘密の話」や「ここだけの話」、つまり「内緒話」だと思うんです
なぜなら、ここでしか話せない、実は皆が思っていることを内緒話として的確に表している呟きには、皆が耳を傾けるからです
「人の内緒話を聞きたい」というのは、けっこう人類共通の心理なのではないかなと思っているのですよ
私はあけっぴろげな性格なのでできませんが、これを読んでいる人でバズりたい人がもしいたら、ぜひ検証した結果を聞かせてもらいたいです、興味があるので
さきほど述べた友人と同じように、文字や文章で表される人の意思が怖いという人たちに、少しでも優しい世界であれ
そして、今日も楽しく面白いネット社会でありますようにと願う今朝でした