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わからないことをわからないまま

私はわからないことをそのままにするのが大変苦手である。
だから人に聞くし、自分で調べる。
よくある「不文律」とか「常識」という類が、私の頭を悩ませる。わからない。何故言われなくてもわかるのか。そういうのは、全然類推できない。他人の気持ちは易々となだれ込んでくるのに。負の感情は特に。

とかく、大変生きづらい。

ただ最近、生きていて思うことがある。
人間は「自分にとってわからないもの」を理解する時に、「自分にとってわかるフィールド」に落とし込もうとする傾向にあるのではないか。

例えば、私の場合は、やることにいちいち理由がないと納得できないタイプだ。自分が全くもって合理的に行動できない癖に、人にはある程度の合理性を求める。面倒なタイプである。

先日、とある中学校の職員室にお邪魔する機会があった。
子どもは自由奔放で、大抵大人の思う通りにはならない。試されている気になる。そして私は挑発に弱い。特段好き、という訳では無いが、子どもに向き合いたいと思うのは事実だ。子どもと過ごす時間は楽しい。想像力の限界を簡単に突破される。腹は立つが、その方が絶対にいい。大人しい方が怖い。手のかかる方が面白い。

職員室では、とある問題生徒の話になっていた。と言ってもその子に非行等の事実はなく、ただ体調を悪くしがち、とか、理解力が乏しいとか、要するに「大人の思い通りにならない」というだけである。
そしていわゆる、「不思議ちゃん」で、典型的な「かまってちゃん」だった。

明日、雨降るらしいですよ。
そうなんだ。
○○(該当生徒)が言ってました。
なんて?
雨の降る前には、妖精が見えるんですって。それが見えたから、明日は雨、らしいです。
ええ、またそんなこと……
どうせ天気予報見て言ってるんですよ、構って欲しくて。
そうですよね。

それを生徒の目の前で言えるのかよ。
喉まで出かかった声を飲み込んで、自虐的に笑う。
私も「空気の読める」人間になったな、と、笑う。

妖精が見えるなら、見えるでいいじゃないか。
別に、誰にも迷惑じゃない。
自分にとって、わからないものを、わからないまま、認め許容することって、そんなに難しいのだろうか。
自分に見えてないものに、興味が湧かないのか。

自分の尺度でしか、世界は測れない。
だからこそ、せめて柔軟に、視野を広げていきたいと思う。
ちなみに私は物理的な視野は、めちゃくちゃ狭いんですけど、精神的な視野は、ひとより少しだけほんの少しだけ、広い自信あります。

わからないものをわかりたいという気持ちはとても大切だと思う。
けれど、自分の解釈に当てはめて、わかったつもりになるのはとても危険な状態だ。
自分にとってわからないものが、誰かにある、ではいけないのだろうか。
完全にわかりあうことができなくても、自分にとって見えないものが見えないままでも、それごと認めることはできないのだろうか。

世の中は、見えるものより、見えないもので成り立っていることのほうが多い気がする。
ストレスゲージとか、誰か開発してくれないかな。疲労度ゲージとか。見えたら楽そうなのに。

あなたがそう言うなら、そうだね。
あなたがそう思うなら、そうなのかもね。

でも私がこう言うことも、確かにある。
私がこう思うことも、確かにここにある。

対立が生まれたら、それはもうしょうがないので、擦り合わせて擦り合わせて、生きていくしかない。
ただ、互いを認める、ということは、理解に依らないと私は思っている。

存在に理解が必要なんて、窮屈じゃないですか。

ちなみに先日友人とファミレスに行った際、カルピスソーダを突きつけて、「コーラ」と言ったら普通に納得してた。「私コーラ飲まないから」「最近のコーラって白いのかなとか思ってた」と言われた。
いや、そこは理解に依るだろ。


こうして私はまた、矛盾した思いを抱えることになった。
かくも生きにくい、世の中です。

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芥乃 いのり
新しいキーボードを買います。 そしてまた、言葉を紡ぎたいと思います。