ついに終わってしまった…
昔から、「選択」と「喪失」にばかり着目した物語を書きがちだった。
現在進行形で書いている話は、それとは少しテイストが違うのだけれど、今でも何かを選択すれば、喪失がやってくること、それが怖いのに変わりはない。
小さい頃からよく家族に、のろまだの愚図だのと言われてきた。のろまや愚図と言われなければならなかった所以について改めて考えてみると、わたしの属性として、「物事の取り掛かりが遅い」というのがあり、どうやらそれで誹られているようだった。つまりすぱっと始めて、すぱっと終わらせることが出来ないのである。取り掛かりが遅い癖に、一度始めればだらだらと長時間やり続けてしまう。そして困ったことに、毎日やらなければならないことに限ってその傾向が強い。お風呂だって、入って後悔したことなど一度もないし、入ってしまえば気持ちがいいことくらい分かっている。分かっているのに、さっと取り掛かることが出来ない。睡眠もそう。今日まだ出来ることはないかとぎりぎりと張り詰めるように夜中を過ごし、力尽きる(それはまるで、睡眠というより電池切れである)。当然、朝すっきりと起きることは無い。原因ははっきりしている。終わらせることが怖いのだ。今の、現状を変えるということに、それに伴う喪失感に、耐えられないのだ。
すんなり物事を始められない人ほど、ぱっと終わることも苦手なのでは、と思う。こんなことなら、何にでも期限がついていればいいのに、とも思う。何時何分までに風呂に入らなければ自動的に四肢が分散するとか、日が変わったら身体も心も思考も停止するとか、そんなふうに人間が出来ていたらいい。けれど現実そうはいかないから、毎日足掻くしかない。それに時間経過に伴う期限が付与されていても、物事をすっと始める解決策にこそなれど、終わってしまった時の喪失感の代替にはならない。よってわたしは何物にも穴埋めし難い喪失感の部分の、欠落した中身を探さなければならない。
先日、ひと月ぶりくらいに友人と再開した。かつて映画館で、共に働いていた仲間だった。行き先はノープラン。しかし自然と、系列映画館に足は向かっていた。
グッズ一覧を見て、期待の新作や名作の話をする。
ポップコーン売り場で、当時わたしたちが在籍していたころには無かったメニューを注文しながら、当時の、既に思い出となったエピソードを語る。
もう二度と戻ることの無い日々に思いを馳せながら、わたしたちはそれぞれの喪失感に暫く沈黙した。
彼は先日、かつて働いていた劇場に顔を出したと言い、「当たり前だけど、もう、向こう側じゃないな、お客さんなんだな、と思った」と少し笑った。
悲しいかと聞くと、「そうだね」と目を細める。
「でも、仕方ないことだからね」確かに彼はそう続けた。
出会いがあれば別れもあるように、狛犬に阿形と吽形があるように、マックのハッピーセットにおもちゃがつきものであるように、始まりと終わりはいつだって一対だ。始めたからには、終わらせなければならないし、何かを始めるために、終わらせることもある。
けれども終わらせたからこそ、新たな始まりがあるのも確かなのだ。彼らと過ごす時間が、共に働いていた頃と変わらず楽しいのは、きっとわたしが、「良く終わらせた」からなのだろう。今はただ、そう思うことにして、来たる喪失感をやり過ごす準備をする。まだ、空洞に当てはまる何物かは見つからない。喪失感に対するいかなる埋め合わせも持たないわたしにできることは、それしかない。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」
何でも言語化しないと気が済まないわたしが、言語を超えた感情に圧倒させられてしまった作品。悔しかったのだけれど、本当に庵野さんには感服しかない。
言葉にするのも憚られるような、痛みや苦しみを伴う思春期の記憶を詳らかにし、スクリーンに現前させる。ユイの喪失感に蹴りをつけるゲンドウを始め、少年少女たちのそれぞれの思いも増幅し、物語は加速、そして終焉を迎える。
わたしたちの前に全裸同然の姿を見せた作者の勇敢さや覚悟も称えたいですが、何よりもこの物語を、潔く終わらせたという点において、全ての美徳が詰まっていると思いました。最適解という意味ではハッピーエンド。覚悟を決めて、是非。