何故、人を食べてはいけないのかー「常識」と「非常識」の間の話ー
タイトルがなんだか不穏ですが、頭がおかしくなったわけではありません。
どうも。水曜日はお休みなのですが、どうも最近頭が回らないので休日はあっという間に過ぎていく系女子いのりです。あれもしたい、これもしたい……とリスト化しておくものの、三分の一できればいいほうだと思っています。五月病なのかしらん。先週はちょっと調子が悪かった。今週もあまり調子は良くありませんが、なんとか生きていこうと思います。というかここ最近はずっと何やかや不調続き。わたしは積極的に低気圧のせいにしていきたい。
低気圧、すまん。
ふっ、と思ったことを文字にしていきたいタイプなので、なんだかおどろおどろしい雰囲気になってしまったが、グロテスクな話がしたいわけではない。確かにわたしは突拍子もないことをよく口にするし、こうして文字にするし、思い立つタイプではあるけれども、幸いなことに、未だに「人間を食べたい」と思ったことはない。恐らく、今後もない。しかしわたしがもしここで「人を食べてみたい」旨を本気で言ったとしたら多くの人が「なんだこいつ、頭がおかしくなったのか」と思い、また誰かは本気で心配し、わたしを報告するなりして止めようとするはずだろう。何故か。それは常識から大きく逸脱しているからだ。
しかし、この常識というのは厄介だ。
社会で当たり前とされている通説や観念に、こうしていちいち横槍を入れていくのがわたしの面倒なところだし、「考えすぎ」と言われる所以なのだろうけれど、なんでももっともらしい理由がないと納得いかない厄介な性格に育ってしまったのはどうしようもない。幼い頃は何に対してもなんでなんでと聞いて回って煙たがられ、思春期には他人の意見は一切無視して自分の世界だけが正しいと思って生きてきたなかなかに危ないわたしにとっては、常識に敏感であることが処世術ではないかと思っている(けれど、どうしてかうまくいかない。身近な人は傷つけてばかりいるし、自分も勝手に傷ついてばかりいる)。
自分でも本当にめんどくさいのだけれど、こういう役回りの人もいないといけないのかな、と最近は緩やかに諦念している。人の数だけ答えがあるようなことを考えるのが好きだし、自分の中で納得できないことを唯々諾々と飲み込むのも苦手だ。なんだかやっぱり不幸な気がするが、わたしはわたしのできることを考えて、生かしていくしかないと思う。そう思っていないとやってられない。
話を戻す。
「人を食べてはならない」のは、常識的に考えれば、ごくごく当たり前のことである。食べるためにはやっつけなければならない(そろそろ倫理規定に抵触しそうなのでマイルドな表現にしてみた)が、これも常識的に考えれば、ダメだということは、正常であればわかる。しかし例えば人をやっつけてはならないというルールが明確かと言われれば、そうではない気がする。法律には人をやっつけてしまった場合の裁きは明記されているが、「人をやっつけてはなりません」とは書かれていない。それなのに多くの人は人をやっつけないし、そのような考えに陥らない。だから常識となる。
常識とは、これも当たり前のことではあるが、大多数の人が共有するものの考え方である。でもそれは、適当に生きているだけでは、身につかないのではないだろうか、と思う(現にわたしは、二十数年すでに生きているが、身についていない。これはもちろん誇って言っているのではない。寧ろ恥である。自分がその立場に立つかは別としても、知らなかったでは済まされないことはたくさんある)。常識的な環境に、常識的な境遇で育ち、身近な大人の正確な手引きがあってこそ、身につくのである(もちろん、自分で調べたりすることもある。調べられる環境かどうかもまた、関わってくるのだけれど)。まあつまり、常識だと思っていることって、あっという間に変わってしまうし、時と場合にもよるから、常識非常識なんて、ほんとうはしっかりと区分けできるものでもないのかもしれない。不動の価値は確かに安心するけれど、同時に重大な誤謬も招きかねない、諸刃の剣である。
やっぱりわたしは、常識となった物事の背景さえも、知りたいと思ってしまう。脳死的に可否を割り切ることも時には必要だが、向き合って、突き詰めることを諦められないのである。
たとえ、そこに明確な正答がないとしても。
極論、わからないからといって、わかることを諦めるのが、下手くそなのだろう。わからないことがわかったといって、認めたい(誤解のないように一応言っておきたいが、わたしは人をやっつけることを推奨しているわけでも、称賛しているわけでもない。こういう注記は野暮だけれど、言論の穴を突かれるような言い方はされたくないので本当に念のため言っておく)。
要するにわたしはエゴ人間である。こうしてわたしはまた、極論ばかりを言う。
芥川龍之介はかつて、「幸福とは、幸福を問題にしない時をいう」と言ったらしい。
大抵、どうしたらすべての人が幸せに生きていけるのかとか、わたしはどうしたら幸せなのかとかばかり考えているわたしが、幸せになれる日はまだ遠そうだ。
常識って何?と不安になってしまった方はこちら。あなたはたぶん大丈夫。たぶんね。
https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E8%AD%98-79273
村田沙耶香『生命式』
『コンビニ人間』を読み、「この人は本当に、人なのか……?」と驚愕したのだけれど、とにかく村田さんの作品内には、「常識」とか「社会通念」が通用しないから、読んでいて気持ち悪いけれど爽快、という捻じれた気持ちが湧いてくる。稀有な作家さんだと思います。ちなみに「生命式」の世界では、「亡くなった方を食べる」のが常識。SFチックな気もするのだけれどこの世界は、今の現実と恐らく地続きで、登場人物たちも異常だと思っていないからなお恐ろしく、美しい。これぞ正しく、美しい狂気。
星野源「不思議」
「恋」や「Family Song」のあたりでも思っていたけれど、全くの他人同士が惹かれあって恋人になったり、夫婦になったりするのは、本当に不思議なことですよね。
「“好き”を持った日々をありのままで 文字にできるなら気が済むのにな」
一つになりたいと願うことはあっても、やっぱり他人のままだからどうしようもないこともあって。だったら他人のままでいいから、うまくやっていきましょうっていう。残酷なようだけど、わたしはこの人の途方もない優しさに中学時代から救われてきた。ありがとう。そして結婚おめでとう。どうぞ末永くお幸せに……!
……って、これが言いたかっただけ?いや、そんなまさか。