刑余者支援の意義を学んだ本【読書メモ】

永山則夫 封印された鑑定記録
堀川惠子
岩波書店


連続殺人犯の永山則夫と、精神鑑定を行った担当医

ここまでに心を通わせる事が出来るなんてという驚き、その関係をもっても越えられなかった壁があること、鑑定医がキャリアを捨ててしまうほどに全霊を傾けた専門家としての矜持は、うらやましくて感動し、ボタンを掛け違ったような運命に悲しくなります。

加害者がいれば必ず被害者がいる。
当然、なんの落ち度も無く被害に遭った方を支援するべきだと思う。
一方で、再犯しないように、同じ境遇の誰かが犯罪を犯さないようにするためには、加害者も支援して次の被害者をつくらないようにすることに繋がっていると思う。
永山則夫が精神鑑定を通して変われたように、罪を犯す前に誰かが手を差し伸べて変わるきっかけがあちこちにあれば。

刑余者支援の大切さに気付かせてもらえた一冊で、定期的に読みたくなります。


1968年、東京や京都、愛知、北海道と広域にわたり四人が射殺された事件があります。
犯人は、犯行当時19歳の少年、永山則夫でした。

永山則夫は逮捕された後、一度精神鑑定を受け、完全責任能力ありとして死刑判決を受けます。
この時は自暴自棄になっており、全ての調書を受け入れ、精神鑑定にも協力しなかったとされています。

しかしその後、被害者にも子どもがいた事を知り、親を亡くした子の境遇に自分を重ね、贖罪の念が出てきます。

服役生活の中で本を読んで勉強し、印税を遺族に送って賠償を行うため、「無知の涙」等の小説を書き、文壇の一部からは評価を受けています。

印税の受け取りを拒否する遺族もいたため、その分の印税は親の居ない子の勉強のために、と永山基金がつくられました。

その課程でもう一度、永山のような少年を産み出さないためにも真実を明らかにするために、協力して精神鑑定をうける事に同意します。

当時、司法精神医学において多くの論文を執筆していた精神科医に担当を依頼し、異例なほど長期にわたり、精通鑑定が実施されます。

精神鑑定はカウンセリングの手法を用いて行われ、彼が幼少期から貧困、ネグレクト、兄弟による虐待、信頼を寄せていた姉との離別など、とても劣悪な環境に育った事が語られます。

中学卒業後、集団就職で東京に出てからも、猜疑心が強く、昔の非行を知られてクビになるんじゃないかと考えて住み込みで働いていた職場も逃げ出し、長続きしません。

職と住処を転々とした結果、兄弟への復習を考え、横浜の米軍基地に侵入して護身用のピストンを盗み、逃亡と殺人を重ねます。

その時その時の家族への思い、感情を紐解きながら鑑定書を作成します。

完成した鑑定書には、
生育歴から彼の人格は発達途中にあり、精神病のような状態にあった
として、責任能力は限定的だった。少年法の趣旨、更正可能性に照らし合わせて減刑することが望ましいと書かれます。

しかし、その鑑定記録を見た永山は「これは自分の事じゃ無いみたいだ」と言い、証拠として採用することに同意しませんでした。

結果として裁判では、この鑑定記録が積極的に取り扱われることなく、永山則夫は再び死刑判決を受けます。

鑑定の担当医は今回の鑑定結果が否定されたことから、司法精神医学から退いて臨床のみを行うようになりました。

それから20年近くが経ち、永山の死刑が執行されました。そして永山の遺品の中から、この鑑定記録が見つかります。

医師はその鑑定記録を目にします。
「あぁ、手垢で汚れているね。あちこちに書き込みがしてあるな。」

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