
『イスラエルボイコットとパレスチナ』(10−1)イスラエルビジネスは第1次インティファーダから
※ 複数の視点や領域の融合はFusion of horizons、特定の範囲内での融合はFusion of horizonを指す。ここではテーマを単数形のFusion of horizonとした。
シーズン10では、第1次インティファーダ(1987年〜1993年)からオスロ合意以降の1990年代、私が30代のころのイスラエルビジネスの経験になる。馴染みの薄い人もいると思うが、海外で仕事をすることで日本人としての自覚が芽生え、新しい視点に行き着いたプロセスなので、読み物としても気楽に読んでいただければ幸いである。
第1次インティファーダの様子は世界中のメディア各社を通じ映像配信されてた。そのためパレスチナ人に世界中から次のような同情が集まった。
1)非武装の抗議行動:第1次インティファーダでは、パレスチナ人は主に石を投げるなどの非武装の抗議活動を行い、これが国際社会に強い印象を与えた。イスラエル軍の重武装による対応との対比が鮮明であり、パレスチナ人が抑圧されているという印象が強まった。
2)メディアの報道: インティファーダの間、多くの国際的なメディアが現地の状況を報道し、パレスチナ人の苦境を広く伝えた。特にテレビ映像や写真が、イスラエル軍と対峙する若いパレスチナ人の姿を世界に見せ、同情を集めた。
3)市民の参加: 抗議活動には多くの一般市民が参加しており、子供や女性も含まれていた。このことが、運動を武装勢力やテロリストの行動とは異なるものとして認識させ、人道的な視点からの同情を引き起こした。
4)国際的な反応: 多くの国際組織や国々が、イスラエルの占領政策と人権侵害を非難し、パレスチナ人の権利を支持する声明を出した。特に、国連や人権団体がパレスチナ人の状況を取り上げ、国際社会の支持を広げた。
5)政治的変化: インティファーダはまた、イスラエル内でも意見の分裂を引き起こし、一部のイスラエル人や平和団体もパレスチナ人の要求に理解を示すようになった。
これらの要因により、第1次インティファーダはパレスチナ人への国際的な同情を大きく集めることに成功し、その結果として1993年のオスロ合意に至るまでの道筋を築くことになった。
今回のガザ戦争は、メディア各社だけでなく、SNSによる情報拡散が世界中に行われた。それによって世界中の学生によるイスラエルへの投資反対運動が活性化した。
つまり、過去の歴史と比較すると、SNSによる情報の拡散、オスロ合意のような希望がない状態では、ガザ戦争後のイスラエルとのビジネスは、1990年代の第1次インティファーダ後より難しくなることが予測される。
そこで、私の経験を次のように20回にわけて解説することで、日本企業とイスラエル企業のビジネスの今後のあり方を考察する。
Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。