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『イスラエルボイコットとパレスチナ』(10−7)オスロ合意

 私がイスラエルとのビジネスをはじめたのは、第1次インティファーダ(1987年〜1993年)の最中の1990年頃だった。当時、(10−2)1日に3回の自爆テロがあったことはすでに紹介した。そして、1993年にオスロ合意が成立した。

 オスロ合意に至ったのは、ノルウェーの社会学者と外交官夫婦の決断が発端だった。演劇『Oslo』には次のように紹介されている。

「リスクを冒す価値はある。成功すれば、世界を変えることになる!」

 ノルウェーの社会学者テリエ・ラーシェンは、仕事上イスラエルや PLO(パレスチナ解放機構)に知り合いが多く、風土や人々を魅力的に感じていた。外交官の妻モナ・ユールのカイロ赴任に伴って中東各地を旅して回っていたある日、夫妻は二人の少年がにらみ合って武器を手にしている光景を見かける。憎しみにあふれた瞳。しかし、その奥に抱えているのは二人とも同じ恐怖なのだと気づいたそのとき、 彼は決意する。

『中東に和平を。少年同士がこんなことをしないで済むところへ』

 当時、イスラエルとパレスチナは長らく緊迫した状態にあり、公人同士が会えば法に触れる。PLO に至っては死罪と決まっていた。誰もが無茶な話だと一笑に付すなか、モナの上司であるノルウェー外務副大臣のヤン・エゲランに思いを説いて協力を得られることに。しかし、 極秘裏に準備を進めていた両代表の面会がいよいよ明日に迫ったある日、大惨事が起きてしまう...。そして、ふりかかる様々な難局をどうにか こうにかくぐり抜けようと模索するテリエに、ついに、待ち焦がれていた連絡が入る。これまで非公式に進めるために民間人が派遣されていたイスラエル側の代表が、外務省事務局長のウリ・サヴィールに代わる、と事態は動き出した。

 あまりに自爆テロが日常化していたためか、私にはオスロー合意が俄に信じ難かった。そんなとき、私のパートナーの社長と副社長に次のような質問をした。

 ”あなたたちは本当に平和になれるのか”

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