小林雅英から教わった大切なこと
歴史の授業で習う年表のように、年号を聞いただけで「ああ、その年は××をした年だ」と自分の中で覚えられ続ける年がある。
僕にとって2005年はそういう年だ。
2005年。
テレビをつければレイザーラモンHGが「フォーー!」と叫び、環境大臣の小池百合子が「クールビズ」をプロモーションし、小泉純一郎が郵政民営化を訴えて解散・総選挙を行って「小泉劇場」と呼ばれた年。
その年の秋に僕の好きなチームは初めて優勝争いをした。十数年のファン歴で初めてのことだ。
2005年10月15日。
福岡のヤフードームで福岡ソフトバンクホークスと千葉ロッテマリーンズのパ・リーグプレーオフ、セカンドステージ第3戦が行われた。
ここまで2勝しているロッテが勝てば、31年ぶりのパ・リーグの優勝が決まる(※2005年当時のルール)。
僕は喜びを爆発させる心の準備をして、その試合が始まるのを待ち望んでいた。
しかし試合開始時間に、僕はテレビの前にいられなかった。球場にも行けていない。
僕はそのころ、福島県の山あいにある民家で、顔も名前もわからない人がほとんどの宴席に参加していた。
この年の夏に妻の母、義母がまだ50代の若さで亡くなった。
その四十九日で、僕は妻と1歳の息子の3人でこの家に来ていた。
妻の家系は親族が多く、法要には大勢の人間が来ていた。
遠方から来ている親族はこの家に泊まる。
夜になっても十人くらいの大人たちが茶の間で酒を飲んでいる末席に、僕は座っていた。
「まあまあ、飲みなよ」60近い男性が徳利を傾けて日本酒をすすめてくる。
「すみません、このあと車の運転があるんで」とそれを断ると、男性は「あ、そうなの」とつまらなそう対応をした。
この人はたしか、妻の叔父…だったかな。次々にいろんな人を紹介されたが全然覚えきれない。
仲介してくれるはずの妻は「嫌いな親族が来ている」という理由で、1歳の子供とともに二階の自室から出てこない。
テーブルの向こうで妻の父、義父を中心に話の輪ができている。
参加者に素性がほとんど知られていない自分には、親族から話が振られることもない。
ただただ時間が過ぎるのを待つ部屋の中で、義父の後ろのテレビにはナインティナインの「めちゃめちゃイケてる!」が流れていた。
野球、プレーオフ。どうなっただろう。見たいな…。
夜8時を過ぎるころ、僕はひとつの決心をして、となりに座っていた妻の叔父に言った。
「すみません、子どものオムツがなくなっちゃったみたいなんで、ちょっと町まで買い物してきます」
嘘だった。
僕はこの場を離れるための口実を昼からずっと考えていて、そしてそのために宴席で一滴も酒を飲んでいなかった。
「あ、そうなの?気をつけて」叔父は興味なさげに言うと、また親族たちとの会話に戻っていった。
亡くなった義母が乗っていた三菱グランディスを借りて、僕は車を出した。
ここは家の後ろに山。
前方は田んぼ。
家の前には片側一車線の国道114号線が通り、その道を左右どちらに進んでもずっと山の中。
電車の最寄り駅はない。公共交通機関でここに来るには福島駅から1日数本だけ出ているバスに1時間以上乗らないとたどり着けない。
そんな山の中から、町に向かって峠を降りていく。
町まではおよそ30分かかる。
車のヘッドライトだけが前方を照らす真っ暗の山道を、緊張しながら運転する。
車内ですぐにラジオをつけた。
一局だけ、パ・リーグのプレーオフを中継するラジオ局があった。これを聞くために、僕はあの家を出てきたのだ。
今だったらスマートフォンで途中経過を見たり、中継を見たりできるが20005年当時はそんなものはなく、パ・リーグのプレーオフの第一報はラジオで知った。
試合は終盤にさしかかっていて、2-0でロッテがリードしていた。
誰もいない車内で「よっしゃ!!」と声を上げる。
「渡辺俊介が7回を無失点に抑え…」というアナウンサーの声を聞きながら、「いいぞ、いいぞ」と街へ抜ける夜の国道を走る。
中継を聞きながら運転するうちに、街に降りてきた。
市街地のはずれにあるローソンの駐車場に車を停め、ジュースとからあげくんを買って車に戻る。
そしてラジオで野球中継を聞く。
やっと俺の夜が始まった、と思った。
試合はロッテがさらに追加点を挙げ、4-0になった。
8回も終了し、あと1イニング抑えればロッテの優勝が決まるところまできた。
9回裏のマウンドに小林雅英が上がる。
4点リードで絶対的な抑えの登板。もう優勝はそこまで来ていた。
しかしその日は様子がいつもと違っていた。
小林は先頭打者を四球で歩かせる。
あー…と落胆しつつ、「大丈夫、いつもの“四者”凡退パターンだ」と自分に言い聞かせる。
小林の登板は「劇場」と称されるように、三者凡退では終わらないことが多かった。
1点差であればランナーを出し、スコアリングポジションまで進められるがホームは踏ませないように後続を抑える。
2点差以上あるときは「同点に追いつかれない程度」に失点したりする。
それが小林のピッチングだった。
しかし、その日はそうならなかった。
「1塁はセーフ!記録はヒット!ノーアウト1、3塁!」
「タイムリーヒーット!1点返しましたホークス!4-1!」
ラジオの実況アナウンサーの叫ぶ声だけが耳に入ってくる。
なんだろう。どうしてこのアナウンサーはホークスが優位になると声が大きくなるのだ。そんなにホークス側に立ちたいのか。
だんだんイライラしてくる。
「センター前ーっ!代打荒金、タイムリーヒット!4-3!一点差!粘りますホークスッ!」
なんだ。何が起きているんだ。ラジオからは試合が見えない。
ただ異常なことが起きているらしい、という空気だけが伝わってくる。
どうしたんだコバマサ。
やめてくれ。あと1点。たのむ、このまま抑えきってくれ。
「押し出しーっ!同点!同点です!ホークス追いつきましたっ!」
ああ。何やってるんだコバマサ…。
さっきまで体にあった喜びの感情が、ガラガラとしぼんでいく。
気がつけばローソンの駐車場には自分以外一台の車もいなかった。
真っ暗な夜のとばりの中、光る看板に虫がたくさん集まっているのが運転席から見える。
その虫の一部がフロントガラスにへばりつき、うごめいている。
車の中でラジオを聞きながら、高揚した感情が急速に冷めていく。
俺はこんなところで何やってるんだろう。
今頃、奥さんは泣く子供を一人であやしてるかもしれない。
きっと「どこまで行ったんだ」と怒っているだろうな。
…帰るか。
帰らないとな。
頭ではそう思っているのに、僕は車を動かさなかった。そしてそのままずっとラジオを聞き続けた。
試合は延長戦になり、ホークスが10回裏に川崎のヒットでサヨナラ勝ちを決めた。
「サヨナラ!サヨナラでホークスが一勝を返しました!」とアナウンサーが今日一番絶叫するところで、ラジオを切った。
深いため息をついて、座席をリクライニングさせる。
ああ…!コバマサが抑えてればなあ。
今日で決まりだったのになあ。
あーこれシリーズの流れ変わるやつだ。
明日ホークスが取ったら、もうダメなんだろうな。
そして「今から戻るの、やだなあ…」とグズグズ思いながら僕は体を起こし、深呼吸して、車を出発させた。
野球を見てて一番ぐったりするのは、応援するチームが勝利目前で逆転負けされることではないだろうか。
相手チームに序盤から一方的に点を入れられてワンサイドゲームのまま終わるのも、接戦の試合を1点差で負けるのも楽しいことではないが、「勝利目前で9回に抑え投手が打たれる」ショックに比べればおだやかな痛みであるような気がする。
勝ってる試合を9回に逆転されるのは本当にへこむ。
だからどのチームのファンもクローザー、抑え投手の評価は辛くなる。
10回リリーフに成功しても1回逆転負けがあると「なんだよ」と思ってしまう。
2000年代前半から中盤くらいの時期に、私はよくインターネットの2ちゃんねるプロ野球板を見ていた。
あるとき、たまたま西武ファンの集まるスレッドをのぞいたら「豊田、ダメだわ」「抑えを豊田から違う選手に替えてほしい」「豊田が出てくると負ける気がする」という書き込みが続けて投稿されてるのを見て衝撃を受けた。
当時、豊田清はライオンズの絶対的なクローザーだった。
それこそロッテファンからすれば登板してくると「ああ、終わった…」と沈鬱な気分になる投手だった。
しかし、そこに書き込みをしていたライオンズファンはそう思っていなかった。
もちろん当時のライオンズファン全体の中でどれぐらいのファンが「豊田は抑え失格」と思っていたかわからないが、一定の人数が「豊田が出てくると負ける気がする」と思っているというのは、衝撃だった。
そしてそれは他球団のファンでもそうだった。
中日ファンにとっては岩瀬が、阪神ファンにとっては藤川が「出てくると負ける気がする」というようなことを書いていた。
もちろんどれもファンの総意ではない。むしろ一部のファンの意見にとどまるだろう。
けれど、どこのチームのファンであっても、抑え投手に対しては「よく打たれる」というネガティブイメージを持つ人が少なくない、ということは意外な発見だった。
小林もよく批判を受けていた。
打たれればテレビや新聞報道などのメディアで「背信」などという言葉を使われ、球場のファンからはよく罵声を浴びていた。
でも小林はそういった声に負けなかった。
前日の試合で打たれたとしても彼は飄々とマウンドに上がり、そして翌日はぴしゃっと抑えたりする。
いつしか、「失敗するのがリリーフ」と考えるようになった。
そもそも、本当にダメだと判断されたらマウンドに送られないのだから。
・・・・・・
妻の実家に戻ったのはもう夜半といえる時間で、宴席はとっくに終わっていて、みな寝ていた。
足音を押し殺して二階の妻の部屋に近づくと、子供が泣いている声が聞こえる。
スーッと障子を開けて部屋に入ると、妻が泣いてる子供に授乳していた。
「あ、ごめん…」
妻はこちらをチラッと見て「どこまで行ってたの」と言う。
豆電球だけが点いた部屋は暗くて、顔がよく見えない。
声の調子は怒っているようにも、呆れているようにも聞こえる。
「あ、いや、ちょっと町まで買い物に…」
乳を飲んだ子供は静かになり、スー、スーと寝息を立てた。
妻は子供を布団に寝かせるとハーッ、と深いため息をつき、無言でこちらに背を向けてゴロッと布団に横になる。
行ったのは失敗だったろうか。
失敗だったんだろうな。
でも、行くしかなかった、よな…。
失敗はある。
長く続けていれば、いつだってついて回る。
それはそれと割り切ること。反省はしても、後悔はしない。
僕はそれを小林から学んでいた。
前日打たれようと、続けてリリーフに失敗しようと、自分の名が呼ばれればマウンドに上がり、肩を揺らす独特のフォームから渾身の球を投げる小林の姿は美しかった。
弱音を吐かないその心を、いつも僕は人生の参考にした。
・・・・・
それから二日後、パ・リーグプレーオフ最終戦。勝った方がリーグ優勝。
最終回、ロッテ1点リードの場面でマウンドに立っているのは、2日前に手痛い逆転打を食らったばかりの小林雅英だった。
僕はそれを自宅のテレビ中継で見ていた。
ヤフードームに「お願い逆転して」「おとといと同じように打ってやれ」というホークスファンの願いが充満している中、小林はその日も同点のランナーを2塁まで進めたものの、最後は抑えきって見事胴上げ投手になった。
初めて自分が好きなチームが優勝したことは体の中に熱が沸くようにうれしかったが、同時に小林が傷つかなかったことにホッとした。
たいがいのヒーローは活躍と共に覚えられる。
けれど、僕のヒーローは失敗した場面ばかり記憶に残る、小林雅英だった。
いつもランナーを出したり、追い上げられる点を取られたりハラハラさせたあと、なんとか抑えて「あっぶねー」と胸をなでおろす。
かと思えばたまに打たれる。
なんだよーもう…と落ち込んでいると、本人は平然と「こういう試合もある」みたいなことを言っている。
その姿を、僕はいつも人生の参考にした。
僕の仕事は書店経営だ。
仕事をしていると、うまくいくことばかりではない。
むしろうまくいかないことの方が多い。
「こうした方が売り上げが上がる」と思ってやった店の改装が上手くいかなかった。
「この子は有能だ」と採用したスタッフが、二週間で辞めてしまった。
長く任せていた社員が、会社の商品を窃盗していた。
仕事をしていくと落ち込むこと、「明日働くの嫌だな…」ということが何度かある。何度もある。
でも明日はやってくる。
そんなとき、僕はいつも小林のことを考えた。
コバマサは、救援失敗したって堂々としていた。
次の試合になると、前日打たれたことなどなかったかのように堂々と登板していた。
雑誌のインタビューで「失敗は忘れるようにしている」と言っていた。
僕のヒーローは失敗する人だった。失敗する人だから、僕は大好きだった。
「幕張の防波堤」というニックネームが、僕はあまり好きではなかった。
普通、野球選手につくのは「打撃の神様」とか「守護神」「ハマの大魔神」というように神様だったり、人間を表すようなネーミングだったのに「防波堤」って。
それ無機物じゃないか。人ですらない。
でも考えてみれば、無機物だからこそまた作れる。
防波堤が壊れたら、また作り直せばいいのだ。
責任ある仕事を続けてやっていけば、どこかでうまくいかないときは出てくる。
周りから冷たい目で見られることもある。
それでも、責任ある立場を任されてるからには、また登板しないといけないんだ。
まるで前日のリリーフ失敗などなかったことのように登板するコバマサのように、「いや今回は大丈夫でしょう」という顔をして、続けなければいけないんだ。
僕は小林雅英からそんなことを教わった。
あのプレーオフで4点差を追いつかれたコバマサは、優勝を決める試合となった第五戦の最終回でふたたび登板、今度は抑えて胴上げ投手になっている。
責任あるからこそ失敗も出てくる。
大事なのは、そのあとなのだ。
出版不況と呼ばれて久しい業界で、本の売上は以前より落ちている。この先も厳しいだろう。
だけど会社の代表になった2年前、私は決めたのだ。
続けられなくなる限界までやってみよう、と。
かつてのようにうまくいかなくても、零細企業の自社で私の代わりに投げてくれるリリーフエースは誰もいない。
代わってくれる薮田も伊藤も内もいない。
けど、声援を送ってくれるファンはいる。支えてくれる家族もいる。
なんであれ、自分が投げなければいけないのだ。
頭にはいつも背番号30の後ろ姿がある。
大丈夫。
なんとかなる。
かつてマウンドの小林に念じていた言葉を、いま自分に呼び掛けている。