齋藤彰俊引退試合

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彰俊は近年年齢非公開にしてるが、古いプロフィールには生年月日が出ており、それによれば59歳。

プロレスラーとして最初にリングに上がったのが1990年なので、キャリア34年になる。

彰俊のプロレスラー人生は2009年6月13日の「前」と「後」にはっきり別れている。

その日、彰俊はバイソン・スミスと組み、三沢光晴と潮崎豪と戦った。メインイベントのタイトルマッチだった。

その試合で三沢は彰俊のバックドロップを受けたあと、立ち上がることなく、運ばれた病院で亡くなった。

当時試合を取材していた週刊プロレス編集長の佐久間一彦は「普通のバックドロップだった」と語っている。

彰俊も違和感を感じることなく、投げた直後に三沢が起き上がってくることを待っていた。だが、三沢は起き上がってこなかった。

広島の病院待合室で三沢の回復を待っていた彰俊は深夜に亡くなったことを知らされるが「心臓が止まったあとに動き出す症例がある」ことを知っており、明け方までそのまま付き添いを続けた。だが回復しないと知るや、病院を抜け出し、近くの川に身投げすることを考えた。

しかし「自分が死んだら三沢さんの死を受け入れられない人の気持ちのぶつけ先がなくなる」と考え、リングに上がり続けた。

三沢が亡くなったことに関する彰俊への誹謗中傷が相当あったと推測するが、彰俊はそのことは今に至るまであまり語らない。

「それを受けるのが私の役割ですから」と語り、DMなどでそういった内容の攻撃的なメッセージが来るとかならず一行でも返信するようにしているという。

(このあたりのエピソードは長谷川晶一『2009年6月13日からの三沢光晴』(主婦の友社)に詳しい)

それから15年半が経過した。

彰俊はNOAHのリングに立ち続けた。

タイトルマッチに出ていたことからわかるように、2009年6月の時点ではメインイベンターだったが、それから徐々に扱いが下がるようになり、数年後には若手選手や無名の外国人選手にも負けるポジションになった。

いくらなんでもあんまりでは…と思ったが彰俊はそのままNOAHへの出場を続け、そして団体の運営会社が変わったタイミングで中堅的なポジションに戻された。

あるときはヒールになり、あるときはベビーフェイスに戻り、団体を活性化させるグループに入ったこともあれば、ひっそりと試合が組まれないこともあった。

そうして団体に貢献し続けてきた彰俊が、今年引退を発表した。

プロレスラーデビューから24年、三沢の事故から15年が経過していた。

彰俊の引退試合は地元の名古屋で組まれ、対戦相手は丸藤正道だった。

「最後に三沢さんを背負った人と戦いたい」という彰俊の要望だった。

90年代、ずっと新日本プロレスに出ていた彰俊が団体を辞め、その後初めてNOAHに出たときの対戦相手が丸藤(と井上雅央)だった。

また、三沢の追悼興行が一通り終わったあと彰俊はフリーになるが、その数年後に「戻ってきませんか」と声をかけたのが副社長になっていた丸藤だったという。

59歳になった彰俊は懸命に戦う。

コンディションはわからないが、そんなよくもないだろう。

ウェートアップした身体を丸藤にぶつけていくが、スタミナが切れてきたところで反転される。

後半、丸藤はエメラルドフロウジョンを出す。最後は左右で放つワンツー式のエルボーだった。どちらも三沢光晴の技だ。

丸藤はずっと三沢の技を使わなかった。

三沢の死後、誰もが丸藤に三沢の後継者を期待したが、丸藤は安易にそのリクエストに答えなかった。

三沢光晴の弟子だった鈴木鼓太郎はあるときからワンツーエルボーを使うようになったが、丸藤は決して使わなかった。

「自分がやっていい技じゃない」と思っていたのか、「ずっと『三沢』に引きずられたくない」と思ったのか、それはわからない。

とにかく丸藤は三沢光晴の技をずっと使わなかった。

その丸藤が、あれから初めて三沢の技を使った。

二人にとってこれは区切りの試合だったのだろう。

彰俊は気遣いの人だ。

平成維震軍の時は先鋒役を務め、誰かとタッグを組めばサポート役に徹する。クリスマスやハロウィンの興行ではコスプレをして楽しませ、解説をやれば常に団体や選手をポジティブに語った。

組織に殉じることができる人だったと思う。

彰俊の引退試合はセミファイナルだった。

自分の引退試合のマイクで「このあとすごい試合があるんで!」と言う人を初めて見た。

解説を務めたモハメドヨネは泣いていた。

また一人、ずっと見てきた選手がリングを降りる。

引退試合を見るたび、自分がすごく年を取ったように思う。


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