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「わからなさに持ち堪える」という話の落とし穴
精神分析ではしばしば「わからなさに持ち堪えることが重要だ」という類のことが言われます。これは、性急に答えに飛びつくのではなく、「ああ、そういうことだったのか」という理解が降りてくるまで、治療空間に心理的に身を置き続ける、というようなニュアンスを表現しています。未知の可能性に開かれた態度といったようなことです。あるいは、どんな迷宮にもきっと出口があるから、ワークし続けることを諦めないように、という激励も込められているかもしれません。
こういう考えは、実際に分析治療の進み方を言い表したものとして「たしかに」と思わせるものがあります。治療の進展に寄与するような理解というのは、しばしばセラピストとクライエントがなんとか一緒に難所を乗り越えた先に初めて見えてくるということがあります。セラピストの側が先にすべてを見通しているわけではなく、ともに進んでいくものだということですね。
ただ、こういう箴言的な文句にはつきものの逆説ですが、こういうことが業界内でよく言われるようになった結果、かえってこの類の話が落とし穴になっているのではないかと思われる節もあります。それは端的に言えば、セラピストが事態を理解できないことの免罪符として、この話を使ってしまうことです。
「わからなさに持ち堪える」ことの重要性を発見した人たちというのは、最初からそれがわかっていたわけではありませんから、当然ながら、わかろうとベストを尽くしたことでしょう。「わからなさに持ち堪える」という類の話の背景には、そのような訓練を受けた専門家諸氏が悪戦苦闘したという暗黙の前提があるわけです。
ところが、いったんこれが決まり文句として定着してしまうと、この考えを最初から知っている後世のセラピストは、「わからないことにぶつかるのはお決まりのことらしい」という意識を持ってしまう可能性があります。すると、後世のセラピストは、「わからないことに持ち堪える」重要性を発見した人たちがわかろうとベストを尽くし悪戦苦闘していたフェーズにおいても、「わからないことに持ち堪えることが大事って書いてあったから、まあこんなもんなのだろう」といった具合に、「わからなさ」に胡座をかいてしまうかもしれません。この類の話が示唆しているのは未知の可能性に開かれることであるはずなのに、これでは「わからなさには耐えるもの」という既知の考えに甘んじていることになります。
もちろん、分析治療がどのように展開していくものか、体験的に知っている専門家ならば、悪戦苦闘の部分や未知の可能性に開かれることのなんたるかが実感としてわかりますから、「わからなさに持ち堪える」という話を、その暗黙の前提部分を織り込んだ上で理解するでしょう。しかし、そのような経験的基盤を持ったセラピストが日本にはどのくらいいるのだろうかというところに若干の心許なさを覚えなくもありません。
私の臨床経験から補足するならば、分析治療というのはたしかに「わからなさ」に直面するのですが、それは「発見の驚き」との往復運動の一部です。治療の展開とともに新たな「わからなさ」に出会い、クライエントのワークにお付き合いしていった先に新たな「発見の驚き」があり、その先にまた新たな「わからなさ」が出てきて・・・という。
つまり、あまりにも長く「わからなさ」が続き、治療に進展も見られない場合には、「わからなさに持ち堪えている」というよりは、そのような話を免罪符にして「わからなさの上に胡座をかいている」のかもしれません。
というのは、セラピストというのは基本的には長年にわたる専門的な訓練を受けてきているわけです。つまり、一般の人に比べたら、やはり遥かに人間の複雑な情緒の動きや、人間関係の力動的関係、そしてそれらがうまくいかなくなる要因やそれをどう乗り越えていくかについて感得してきていることが想定されます。平たく言えば、一般的な意味ではやはり「よくわかっている」ことが期待されます。そのような専門的な水準を前提としたうえで、「大事な発見の前には堪えどころがあるよ」という話なわけです、あくまでも。
昔、あるプロ野球選手が、「毎シーズン、一本目のヒットが出るまでは、このまま一本も打てないんじゃないかと不安になる」と話していました。これも、一軍で1シーズン活躍できる実力と実績を暗黙の前提とした上で、「プロの世界でヒットを打ち続けることの難しさや、常に技術をアップデートすることの重要性」をプロの水準で語っているのであって、本当に一本も打てなければ二軍に落ちたり、引退せざるを得なくなったりするでしょう。あるいは、熟練のモノづくり職人が、「一生勉強です」と言ったとしても、それは常人には感知できない鋭く繊細な感覚の話をしているのであって、素人目に見ても勉強が必要なほど品質がバラバラであれば、商品として成り立たないでしょう。
精神分析の世界で言われる「わからなさに持ち堪える」という類の話も、専門的なアセスメントに基づいて(つまり「わかる」ことは「わかった」うえで)着実に分析治療が進展していることを暗黙の前提として、いつも未知の可能性に開かれた態度でいることに言及しているのでしょう。もし「わからん、わからん」と内心思いながら「これにも大事な意味があるのかな」などと自分を慰めているとしたら、それは単に訓練不足ということかもしれません。
(元記事投稿日2024年10月24日)