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「消えたお年玉の謎」

熱中時代

 正月、というにはだいぶ時間が過ぎて…どころかもうすぐ2月だけれど、この時期に今もぼんやり思い出すことがあるのは、水谷豊が40年以上前に新米教師役を務めた『熱中時代』。『世界一受けたい授業』のテーマ曲「ぼくの先生はフィーバー」が主題歌だったドラマだ。

 視聴率が40パーセントを超えたという、生徒一人ひとりに通信簿を渡す伝説的最終回ももちろん印象深いのだけれども、それよりもっと、恥ずかしながら今でも見ると泣いてしまうくらい強く記憶に残っているのが、「消えたお年玉の謎」の回だ。

 北野広大先生(水谷豊)が帰省先の北海道から下宿へ戻り、生徒たちが遊びに来たときに起きた、お年玉がなくなる"事件"と、下宿先の主である校長先生(船越英二)が正月4日と5日の2日間を何も食べずに過ごしている習慣が交わる話。

 お年玉は「消え」てはおらず、"事件"そのものが大事に至るわけではないが、この放送回のハイライトは、校長が、教員になりたてだったという昭和19年頃の、戦時中の話をして生徒たちを諭したシーンだ。

 お正月の2日間くらい、ひもじい思いをしなければ申し訳ない。つらく悲しい経験が、戦後30年以上つづける習慣になった――その悲しい経験談の中身が、子供心にも響いたのだった。

DVD-BOXでも

 2002年に発売されたDVD-BOXには、ロケ地だった小学校で脚本・布勢博一、演出・田中知己、主演・水谷豊の3氏が放送当時の思い出を語るアンソロジーディスクも封入されている。そのなかでもこのシーンの撮影時に触れていて、水谷が回想している。

船越さんのそのときの芝居が終わって、送り返し…スタジオを真っ暗にしてモニタを見ますでしょ? あのときね、船越さんが送り返し見ながらずーっと泣いてたんですよ。涙がずーっと流れっぱなしで。それが印象的で。ちょっと近寄れない状態っていうんですかね…

 放送されたのは、昭和54(1979)年1月。戦火をくぐり抜けた人たちも健在で、当時50代後半になっている教員の中には戦地へ行ったという人もまだまだいた頃だ。生徒役の子供と同世代の自分が通っていた小学校でも、そういう先生が教壇に立っていた。

 脚本、ドラマの中の話といえばそれまでだが、こういうことは日本中のあちこちであったのだろう。船越英二という名優自身か近しい周囲でも似たようなことがきっとあり、いろいろ思い出すこともあっての「涙がずーっと流れっぱなし」だったのか、と想像している。

◇   ◆   ◇   ◆   ◇

 世の中には、わずかなお金がないばかりにひもじい思いをしてる人はまだまだたくさんいる。お年玉をもらってうれしいからといって見せびらかしたり、無駄遣いをしてはいけない。ブラウン管の向こうから校長先生が諭してくれたのに――

 心を動かされる話に聞き入ったのと同時に、放送当時、見ていた小学生の頭の中をビックリマークで占めたのは、いちばん多くお年玉をもらったという子の額が8万円(!)、そして2番目に多かった子は6万5千円(!!)だったことか。

 小学生の頃、多くもらえた年でも合計1万円をちょっと超えるくらいで、友人たちでもそこまでもらってるやつは(たぶん)いなかった、なんて記憶しかない自分には夢のような数字、とんでもない巨額に思えたものだった。

 今だって8万円は高額だけど、この当時の物価や貨幣価値は、現在に換算すると1.5~2倍に相当する…らしい(今なら12~16万円か)。ドラマでしょ、とわかっちゃいるつもりだったけど、自分もこんなにもらえたらなァという、子供らしいと言えば子供らしいことを考えていただけ、だった…。


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