From 1983
ひとごと?
この人、カントクだよな。どうしてこんな他人事(ひとごと)みたいな顔をしてられるんだろう――
野球好きといっても"ただなんとなく"なレベルにすぎなかった中学3年生にはそう見えた。
巨人と西武が初めて対戦した1983(昭和58)年の日本シリーズ。西武が2勝3敗と王手をかけられて迎えた、本拠地西武球場での第6戦だった。
西武1点リードで迎えた9回表2アウト一・二塁、中畑清が完投勝利目前だった杉本正から右中間を破る三塁打を放ち、試合をひっくり返した巨人が日本一を手にしたかと思えた場面。裏の西武の攻撃がまだ残っていたとはいえ、勝負を決定づける一打となった雰囲気は十分だった。
土壇場で、3勝3敗のタイに持ち込むまであと1アウトの場面から逆転を許し、一転、シリーズ敗退の大ピンチに陥った西武。
ベンチで戦況を見つめる広岡達朗監督の無表情をテレビカメラがとらえた光景が、けっこう印象に残るものだったのだ。
指揮官はつねに冷静でなきゃいけないとはいえ、動揺して当然の展開。もちろん内心動揺し慌てていたとは思うが、外野が想像するほどではなかったらしい。サヨナラ負けを喫し王手をかけられた1つ前の第5戦の後でも、それほど不利じゃないと選手たちに説き、言い聞かせていた――と、のちに刊行された著書を読んで知った。
9回裏の攻撃で、胴上げ投手になるべくマウンドに上がった西本聖を攻略して西武が同点に追いつき、延長戦に突入し、10回裏に登板した江川卓を打ってサヨナラ勝ち。雨で1日延びた第7戦も西武がモノにし、中日を破った前年につづく2年連続日本一を決めたシリーズだった。
また巨人が逆転して9回裏の守備につく際、藤田元司監督らが胴上げに備え(?)、グラウンドコートを脱いだ――
このシーンをネット裏から見て巨人側の油断を感じ取ったノムさんは第7戦があるかと思った…という、たしか『Number』の記事を読んだのはもう少し後のこと。そんな細かいことを思い出せる試合でもあった。
白熱、逆転…
まだ全試合デーゲームで行われていた日本シリーズ。
土日~火水木~土日、この2-3-2のスケジュールは今も同じだが、後楽園での平日3連戦は、まじめ? な中坊には、土日のようにテレビ観戦ができない頃で、まだビデオ録画さえポピュラーではでなかった時代。学校から急いで帰り、テレビ中継を試合終盤から見るしかない時代だったことも思い出す。
第1戦と第2戦は、第3戦以降にくらべれば静かな展開。1勝1敗で、後楽園球場に舞台を移した第3戦からは、すべて先制したほうが負けるという逆転ゲームの連続で、白熱した。
第3戦は9回2アウト・ランナーなしからの逆転サヨナラで、第5戦も2アウト・ランナーなしからの2四球 → そしてクルーズのサヨナラ3ラン。西武4勝3敗…の3敗のうち2つが、このサヨナラ負け。そして4勝のうちの3勝は、7回以降の逆転でのもの。
先勝したものの連敗、タイにしたけど先に王手をかけられ、なんとか逆王手という寸前に逆転されながら9回裏に追いつき、延長でサヨナラ勝ち。最終第7戦でも逆転勝利し2年連続日本一を果たした西武ライオンズという新興球団の、終盤の粘りや勝負強さに魅せられたのがこの年だった。
1977年の王貞治756号、1978年日本シリーズ第7戦の阪急・上田利治監督による1時間19分の猛抗議(相手は広岡監督率いるヤクルトだった…)、1979年「江夏の21球」etc. etc. etc.
83年以前でも、テレビで見ていたプロ野球シーンを断片的には記憶していたが、現在につながる、より真剣に見るきっかけにもなり、勝利目前で逆転を許してもぜんぜん動じなかった(ように見えた)指揮官・広岡達朗という野球人には、それ以降もなぜか気になりつづけている。
指導を受けた選手らが成長し、多くが監督やコーチの仕事に就き、当時は反発心を持ちながらも、その指導が生きていると発信する記事や番組、動画などを見聞きするたびに、この日本シリーズや、《80年代》の黄金時代初期を思い出している。
後年、野球誌の編集に携わることになるなんて知る由もなかったが、このときに見て感じ読んだものがルーツになり、生きた部分も多かったことは、間違いない。