百合園セイアの声優無しネタから見るキャラクターの本質的要素から目を背けることの不健全性について
はじめに
ブルーアーカイブ4周年というお祭りムードの中、このような辛気臭い記事を投稿することに関してお詫びするとともに、今するしかなかったということへのご理解をお願い申し上げる。
「Code:BOX ミレニアムに迫る影 ~一つの問いと二つの答え~」にて遂に念願の実装を果たしたセイア。私も待ちわびていたとも。何故待っていたかと言うと、私のセイアに対する理解が浅かったからというのもあるが、やはり1つ大きな理由として、声が無い(声優が不在である)ことを揶揄する話題が無くなるからということが挙げられる。
しかし、その希望は思わぬ形で阻まれることとなる。
公式コンテンツではやってほしくなかった
子供のような扱いをしてくるナギサに「百合園セイアは自立できる」ことを証明するのを真意としてミレニアムEXPOに赴くセイア。今までの印象よりも数段と活発で意地っ張りな彼女に、彼女についての新たな知見を得た気分である。視野が広がったと思った。
フィールド探索では辺りのものを片っ端から調べるのが人の性だろう。リオの隠れ家を歩き回っていると、なにやら調べられるマイクスタンドが置いてあった。……嫌な予感がする。恐る恐る調べてみると、いくら声を出しても反応しないマイクに向かって声を張る(今は、張らされている、と言いたい)セイアの姿が映し出され、ひどくショックを受けるとともにふつふつと憤慨の気が湧いてきた。運営及び開発がそれをするのか、と……
なぜ我々はこのネタを擦るべきではないのか
今回のように、内輪ネタが運営・開発に取り上げられてしまう可能性を孕んでいることも理由の1つだが、もう1つ大きな理由がある。
このようなネタをワンパターンにいつまでも擦り続けることは、キャラクターを自分たちのオモシロのための土台にすることに等しく、そのような行いは、キャラクターの本質的要素から目を背けることになる。
セイアの声優不在を揶揄するネタは、(その名の通り)セイアに声優がいない(いなかった)ことを揶揄するだけの、形式的な要素しか表現していない。ここでの「形式」とは、「上辺」「上っ面」といったニュアンスで使用する。
形式的な話ばかりでは、精神性や生き様といった、キャラクターの本質的要素を理解することには辿り着くことはできない。上っ面だけのネタを擦ることは、思考を放棄することと同義である。
このネタを公式コンテンツで取り上げるのは、プレイヤーに対して前述のような危険な未来を増長させてしまうため、絶対にやるべきではなかったと考えると、現在の体制に失望せざるを得ない。
自らの都合でキャラクター性を冒涜している
少し話が脱線する。先程「オモシロのための土台にする」と述べたが、オモシロのために限らず、自分の都合でキャラクター性を歪めることは、今日のインターネット上の二次創作では目立つだろう(なお、今は一次創作は含まない)。かなり強い言葉で表現すると、コンテンツを土台に内輪でキャッキャするだけの存在が目立つ。
アリスのような希望を切り開く勇気ある者が淫夢厨になる世界など存在するワケがないし、シロコのような他者へ優しさという愛を与えることができる者の銀行強盗の場面だけを切り取るのは偏向しているし、ミヤコのような自分の意思を貫く誇り高き者を性欲マシマシ貞操ユルメに捉える目は節穴だ。
自分の欲を満たすためにキャラクター性を歪めてはならない。誤った解釈や認識はキャラクターの本質的要素から遠ざかり、またそれを歪めるだけである。人間の生み出す創作物との健全な向き合い方ではない。
生物学的な定義とは違う「生きている」
ここまでで、なぜコイツはこんなにも架空の存在に過保護なのだろうか。この記事の作者は現実にいる人間の誰にも相手にされないので、架空の存在に縋り付くしか生きる道がないのだろうか。と思った方がほとんどだろう。
それでは、なにゆえキャラクターの本質的要素から目を背けることを危険視するのかをお伝えしよう。
ブルーアーカイブの世界を、透き通るようなこの学園都市と、そこに住まう人々を創り出した者達の1人であるisakusanは、いつぞやのインタビューにてこのような趣旨のことを語った。「キャラクターは生きている」と。
ここでの「生きている」とは、呼吸を行いDNAに基づいて細胞分裂をしているということではなく、
1人の人間、ホモ・サピエンスに限らず、さらに言うと「意思」を持つ存在として、そこに「いる」
ということであろう。
感情の機微が、関係性の変化が、互いに深める絆が、何気ない日常の記録が、物語という形を通して、そこに「生きている(た)」という事実を残す。
このように言うのはやや語弊があるというか大げさかもしれないが、やはり生きている存在である以上、人の精神性を歪めたり踏み台にしたりするのは、外道のような行いであると私は言いたい。
確かにキャラクターは人によって創「られた」存在であるのも否定できない。しかし、作り物の人形に意思が宿るとしたら、それはもう生きていると、私は考える。
おわりに
セイアに関するネタの扱いという話題から随分と飛躍した結論となってしまった感はあるものの、停滞した世界に一石を投じねばならぬという思いでこのような記事を書かせていただいた。
今後の「お仕事」の参考になれば幸いである。