本を読むひと/酒を飲むひと
ただの偏見に基づく鬱陶しいマウンティングと皮肉にがまんならず抗うために話をしてみると、またべつの本を読まないひとが中立をよそおうようにして「本で得る知識と体得とその両方が重要」などといいはじめる始末。
本を読む行為が知識を得る手段(のみ)だと思っているからこその台詞で、それこそ本を読まないひとの(あえて皮肉を込めていうならば)読まないいいのがれのロジックだと思う。べつに他者が本を読まないことに対してぼくはなにも思わないのだが、ただただ彼らの一方的な本を読むひとをすこしバカにしたような感じがいやだった。「本を読むひと<本を読まないひと」の、おどろくべき図式がなぜか彼らのなかにはあって、彼らは本を読むひとが日ごろ本を読むしかやってないと思っているようす。
わたしたちが本を読んでいる時間にわたしたち(彼ら)は外で身をもって実践することでさまざまな社会についてのことを経験値として得ている、ということを主張しようと試みる。
釣りをしたりキャンプをしたり、気のあう仲間と飲みにでていき仕事や人生のことについて生の声で語りあう、そういった経験がじぶんに影響をあたえいまのじぶんをつくりあげ人生のいとなみをより豊かなものにしている、くらいに思っている。つまり、釣りを身体で経験するのではなしに、教本ばかり読みこんで知識を蓄える一方で釣りをしたことがない、ホンモノの魚を釣る経験をしないかぎり「釣り」を知ったことにはならないのだ、という(じっさいにそういっているわけではないが)ことがいいたいのだろう。
けっこうなことである。
わたしたちが本を読んでいるあいだに好きなだけ釣りに行けばいいし、わたしたちが本を読んでいるあいだにしこたま酒を飲めばいい。ただ、彼らが釣り糸のからまりを解いているときにわたしたちは釣り糸をまっすぐに垂らすし、彼らが二日酔いで眠っているときにわたしたちはお酒を嗜む、そういうあたりまえに生活をしている。
彼らがスズキを釣り上げているよこでエサ取りの小さなフグを連続で釣りあげるかもしれないし彼らが獺祭二割三分を飲んでいる目のまえで甲類焼酎の三楽を炭酸で割って飲むこともあるだろう。
つまりわたしたちは本を読んでいないときにだって24時間をあたりまえに経験して動いている。
わたしたちはというのは主語が大きすぎるかもしれないが、彼らが本を読むひとに抱いている偏見が決して個別のものではないようだったので、ぼくは本を読むひとのすべてを味方につけたいと思った。
本を読まないひとから長寿国ランキングのベスト5を当ててみて?と言われた。1位こそすぐに答えられたもののそれ以外の国は簡単にはでてこなかった。まちがえながらも3つ当てることができたとき、「やっぱ本を読むひとは知ってるね」と…… ぼくはそんな本を一度も読んだことがない。
しりとりをした。ぼくはしりとりに自信があった。ぼくは本を読まないひとに勝った。「やっぱ本を読むひとはちがうね」と…… 彼らは本を読むひとはしりとりが強いのだと思っているらしい。語尾を「す」で攻めて追いこんだだけで本はまったく関係がなく、むしろぼくがしりとりに強いのはジャルジャルのおかげだと思っている。
本を読むひとも本を読まないひともだれかが思うほど理由があるわけではないのだと思うしだれかが思うほどしりとりで勝つ特別な秘訣を知っているわけではない。ぼくのばあい、本を読むことがなにかの勉強が目的でも知識を得ようとするすべでもなんでもない。歯を磨く、風呂に入る、iQOSを充電するくらいの意識のもと本を読む。彼らほどではないかもしれないが、街にもでる。