息子先生(筋肉痛編)
薬草漢方のお勉強を始めたのはいいのだけど、この世界も奥が深すぎた。
肝硬変の父が漢方で20年も命をながらえたこともあり、漢方薬の匂いは慣れ親しんではいたものの、薬草のことは、さっぱりな私なのだ。
しかも、自分で薬草を採取して、修治するなんて大変なことに手を出した。しかも薬草によっては修治の仕方が違ったりすることもある。
そして野草茶と薬草茶とは、違うのだ。
薬効を出すためには、知らなければいけないことや注意しなければいけないことが山ほどあるのだ。
毎日飲むお茶だったり、誰が飲んでも大丈夫なお茶は、薬効が出過ぎてもいけないのだ。野草茶くらいが、ちょうどいい。
そこそこ加減がいい塩梅なのだろう。
そして、学びの後は、毎回、息子先生に報告するのですが(感動するとアウトプットしたくなる性質)彼は、納得いかないようで質問攻め💦
「答えられないなら中途半端に話すな!」と一喝される。
とある日、彼が筋肉痛になった。
それを見て、筋肉痛というものは、そもそも筋肉が痛むわけではないと先生からお聞きした話を力説してみた。
しなくてもいいのにしてしまうのだ。
私は、得意げに話し始めたのだが、質問に答えられず、ノートを見る。
「だから、気血水が足りないサインが筋肉痛なのだから、気血水が足りてれば筋肉痛にはならないはずなのだ。」と
こんな説明は、説明ではない。
そもそも、まず筋肉痛というものが、どんなものなのかという説明からはいれと言われる。そんなことはネットで調べろ!と心で思った。(彼は、とうにネットで調べていた😅知っているのに聞かれたわけだ。)
そもそも、筋肉痛というものの原因は、はっきりわかっていないらしい。(そうなんだ)
彼が言うには、運動によって筋肉の組織にわずかな傷ができ、それを修復するために炎症反応が起き、その炎症にともない、発痛物質とも呼ばれる「ブラジキニン」等が血液中から放出され、痛み刺激を感じ取る神経を過敏にするそうだ。その結果、筋肉の痛みが生じてしまい、少し体を動かしただけでも筋肉の痛みが生じてしまうと言うことなのだそうだが、結局のところ、本当の原因は、はっきりとわかってはいないそうなのだ。(彼のネット検索の結果)
ということだとすると、先生のおっしゃることをどう繋げるのかということになるのだが
その前に、気血水の説明も不十分だと息子先生に指摘される。
この時点で、長くなること必須なのだ。
彼の話は長い💦
納得がいかない話を途中で終わらせると気持ちが悪いと言って、終わらせてくれないのが常なのだ。
今回も、何も知らない人に伝える教え方が、なっていないと言うところから始まった。
私の頭の中は、これは長くなりそうだから、どうやって逃げるかということでいっぱいなのだ。
適当に話す。←質問される。
眠いと言う。←許されない。
体調が悪いと訴える。←これが一番いい😁
ところが、どこからみても体調が悪そうではないのだ。ビールを飲んで、気分良くしてる。
逃げられないとわかって観念して、説明にはいるものの、言葉が通じない。
共通言語が違いすぎる。
あたりまえだと認識してることを説明する難しさに頭を抱える。
思考回路が違うので、腑に落ち方も違う。
男性脳、女性脳の違いなのだろうか。
「気血水の気って何?」
気は気なのだ。
光は光なのだ。
空気は空気なのだ。
でよくない?
見えないけど確かにあるものなのだ。
それを、空気は酸素、窒素、二酸化炭素、そしてアルゴンと呼ばれるガス(これ、知らなかったわぁ)などの気体の集まりだと説明する必要が、まずあるらしい。
でも、気は、そのようには説明できない。確かに存在するのだが、感じることもできるのだが、説明できない。
ネットで調べてみるものの、東洋人にとって気の存在は、共通認識に近いものがあるが(それでも様々な捉え方をする)どうやら、外国人に気を説明するのは難しいと書いてある。
そんな感じなのだ。
息子先生に説明するのは手間がかかる。
漢方の先生が地球の原理でお話しされているので、彼に図を描いて説明してみた。
地球と人間の身体が同じだということを説いてみた。
水が流れて海にたどり着く、太陽の熱で温められて、風が吹く、水は蒸発する。それが雲になり雨になり、また海に帰る。
人間の体の中でも同じことが起きている。
巡っているものが不足したり、滞っていたりするとどうなるのかは目に見えている。
大地が渇きすぎたら、砂漠になる。
水が多すぎたら洪水が起きる。
気は風なんだと説明すると、息子先生、原理を聞いてくる。
なぜ風が吹く?
きっと遠い昔に、習ったとは思うけど、風は吹くもので、気持ちがいい。
気功を20年してるけど、気が何かを習う時、体感で習う。
あとは、気のつく言葉を羅列して、
元気
気持ち
気がかり
気をつけて
病気
気の毒
気苦労
気休め
気心
気前がいい
本気
正気
生気
根気
覇気
書き出したらキリがない。
それくらい、日本語には、気がつく言葉が多いのだ。
だから、なんとなく、気の存在を認識している人種なのだ。
それを、説明しろとは、日本人なのか!と言いたいのだか、息子先生、わかってるくせに聞いてくる。
共通認識をした上で、話を進めていかなければ、いけないそうだ。
結果、私は鍛えられます。
しかし、「その説明では、わからないよ」と数時間も費やしたのに言われる。
「物事の説明をする時に、例え話だけだと、ふんわりしすぎでわからない。キチンと全体像と摂理を説明できるようになってから、話して欲しいといつも言ってるよね。」
「何も知らない人が聞いても納得のできるように、中途半端な理解力で話をしないで欲しい。」と懇願されるのでした。
私はどこへ向かう💦
そして、私の中途半端な知識を、息子先生は、つなぎ合わせて、そこにネットで調べた知識をプラスして、説明してくれるのでした。
「なぜ、質問してる人が、拙い説明の意図を汲んで、頭を使って構築する作業をして、しかも、それをわざわざ教えなければいけないのか!」と一喝されて、私は解放されるのでした。
「次回はないぞ」という言葉を何度聞いたことか笑
懲りない親子の物語でした。
「人の頭を使って、まとめるのはやめろ!」とも言われる。
なるほど、私は息子先生を利用しているのか😁
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