愛とは…
恋と愛
何が違うかと言う話になった。
事実は一つでも真実は人の数だけあるように
愛もまた、人の数だけあるのだろう。
子どもへの愛、パートナーへの愛、愛犬への愛、建造物への愛…手仕事への愛…
愛される、愛されたい、愛したい…
魂が見えないように
愛もまた見えない
でも間違いなく命があれば、誰にでも存在するものだと私は思っている。
愛と愛情は、また別物ではあるけれども、純粋に愛というものは、生きていくためには必要不可欠という意味では、魂とイコールに近い存在だと思っている。
そして、愛とは育むもののような気がする。
愛というものをミクロとマクロで見てみると、究極は自己愛で、その反対極にあるものは森羅万象だと思っている。
これは、私の愛の一つの解釈です。
人は、それぞれの人生で、どんな愛をテーマにするのかというシナリオがある気がする。
だから、無数に愛の表現や体現があるのだと思っている。
愛する人を亡くすことも愛を知ることの一つなのかもしれない。
愛する人とこの上なく幸せに暮らすことも愛を知ることだと思う。
愛する人と憎み合わなければいけないことさえ、きっと、愛を知る一つなのかもしれない。
愛をマクロで見るのかミクロで見るのか、そしてその間には、様々なありようがある。
でも、どこからいっても愛を知ることには変わりない。
この広い宇宙と人体の宇宙が呼応するように
愛もまた、外の世界と内の世界が呼応している。
私が愛しているのは、わたし、渡し…
渡すべきものが何なのかと長い間、模索していた。
私が渡せるものとは
私から溢れたものだけなんだと思えるまでに、ずいぶん時間がかかった気がする。
何かになろうと
何者かになろうと
もがいていた気がする
私は、渡しなのに、何者かにならないと何も渡せないと思っていた。
私は、ただ、わたしであればいいはずなのに、何者かになりたいと長い間、そう思っていた。
愛する人は、誰かと
あなたが本当に愛する人は誰ですか?
と問われた時
いくつもの答えがみえてきた。
パートナーの顔、子供の顔、友人、知人
続いてすべての人間、そして動植物…
そうやって、順番に追いかけて行くと、辿り着いたところは
やさしくて美しいバイブレーションという答えだった。
私が本当に愛しているのは、やさしくて美しいバイブレーションだったのだ。
私と呼応するバイブレーション
震える細胞
そんな、見えないものを見える物を通して感じている。
そして、その感じたバイブレーションが溢れ出たものが、私が渡している波なのだと…思った。
どれくらい溢れているのか…
溢れていないのかもしれない…
枯渇しているのかもしれない…
そうやって、自分を疑ってかかる。
私がわたしになるために
私は、私を見つめる。
何者でもないわたしで、ありたいと思う気持ちを忘れないでいたいというのが、今の私の現状だ。
事実、何者にもなっていないのだから、そのままでいればいいはずなのだが笑
どこかで、まだ、何者かになろうと頑張ってしまったり、自己卑下したりしないわけでもないのだ。
それも、歳を重ねるごとに頑張れなくなる現実が私をやさしく包み込んでくれる。
歳をとることも悪くないと…思う。
そうやって、手放しながら愛を知る。
そうやって、歳をとりながら愛を渡していく。
そうやって、生を私は愛しているのだ。
死ではなく生を愛している。
生きていくことを愛している。
そんなことを
息子先生が突然の喘息発作を起こして死ぬかもしれない恐怖と闘った話を聞くことで考えさせられた。(この話は、また、別の機会にでも)
生と死を父と母と夫からの贈り物として、これからも歩いていく覚悟を決めた日が、11月1日というのも偶然ではないのかもしれない。
息子への愛情(まだ愛だけではなく、かなり情が入ってる)を愛にする日は、近いのかもしれない。
まだまだ、息子先生から学ぶものがありそうだ。
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