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戦争とゴジラ
世界が不穏になるとゴジラが現れる…
子供の頃から、ぼくはなんとなくそんなイメージを持っていた。
ぼくの妄想と言えばそれまでだが、制作者たちも、その時々の世界情勢に触発されて作ったであろうことは、作品からひしひしと伝わってくる。
最初の「ゴジラ」は、人々の核汚染への不安が消えない中で誕生した。
東西冷戦の緊張感が続く昭和の終盤には、平成までシリーズが続くこととなる新しい「ゴジラ」が登場し、平成の終盤には、東日本大震災を体験して、抗うことのできない天災への絶望感と国家への失望感が漂う中、「シン・ゴジラ」が作られた。
そして、2023年11月3日、新作「ゴジラ-1.0」が封切られたのだが、世はまさに、第三次世界大戦がいつ起こってもおかしくないというような空気で、得体の知れない靄(もや)に包まれているような中での公開となった。
ロシアとウクライナの戦争は長期化し、後に、火種は中東のパレスチナ、イスラエルへと向かった。開戦の直接の要因ではなかったにしても、そういうムードというものは、まさに飛び火するもののようだ。
2020年にはアメリカ大統領選挙とミャンマー総選挙が同じ月の同じ週に実施され、選挙に敗れた一期目のトランプ大統領は「不正があった」を連発し、ゴネまくった。
すると、トランプと同じく、と言うよりも、圧倒的大差で選挙に敗れたミャンマー国軍政府でさえも「不正があった」と、何の芸もなくトランプのセリフをそのままリピートした。
そして、片や議会に乱入し、片やクーデターを起こした。
歳月は一巡し、片や禊(みそぎ)を認める形を国民は選び、片や強奪した政権を国軍はいまだに手放していない。選挙もせずに占拠してどうする!
結果、ミャンマーの内戦状態は、ロシア-ウクライナ戦争よりも前に始まり、今もなお続いている。
戦況は、面積で言えば、反国軍勢力のほうがより広いエリアを制圧しており、人口で言えば、国軍(=暫定政権)の統制下にあるエリアのほうが多くの人を抱えているという状態になっている。
人々の支持で言えば、踏みにじられた真の選挙結果とあまり変わっておらず、殆どの国民は国軍が政権に居座るのは間違いだと考えており、軍事政権の崩壊を望んでいるようだ。
こんなミャンマー情勢、世界情勢の中、新たなゴジラが現れた舞台は、現実にあった史上最大の戦争、第二次世界大戦の最中だった。
映画の評価としては、本家アメリカのアカデミー賞にてアジアで初めて視覚効果賞を受賞したのは周知の通りだが、興行的にも、これまでのゴジラが出た映画では最高を記録し、特にアメリカでは好成績を収めた。
現実に戦争が共存しているこの時代において、観客が惹かれたのは、卓越した視覚効果だけではなかっただろう。ある者は勇気をもらい、ある者は涙したに違いない。
日本の侵略を受けて多大な犠牲者を出した国々の窮状には触れていないためか、アジアでの公開は難しいのではないかと躊躇しているようだが、本編はいじらないままでも、事前のPRでフォローをすれば、理解して受け入れてもらえるのではなかろうか。日本人だけが犠牲になったと言っているわけではないのだから。
今のアジアの若い人たちは、日本人が思っているほど堅物ではない。そこは、制作陣ではなく営業サイドの腕の見せ所だと思うのだが。
では、多くの観客の足を劇場に向かわせたものとは何だったのか。
その前に、元祖「ゴジラ」はどうだったか、振り返っておこう。
映画が公開されたのは1954年。終戦からまだ9年しか経っていない。
制作者はもちろん、観客の多くも戦争体験者だったということだ。
そうした時代に現れた放射能を浴びたゴジラの物語は、どのような結末を迎えたのか…(ネタバレ注意)
…………………
戦争で人生を狂わされた一人の若い科学者の命と共に、原子怪獣の脅威は地球上から消え去ったのだった。
先の大戦を生き延びた人たちにとって、いかに価値観を180度転換せよと迫られても、戦地で命を落としていった犠牲者たちのことを忘れることはできなかったし、なかったことにはできなかったのだろう。
例えば、特攻は間違っていたと断言するだけでは、犠牲になった者と残された家族へのフォローには決してなっていない。やりきれない。
元祖「ゴジラ」では、我が身を犠牲にした者への弔いと死なせてしまった悔いを惜しみなく描いていた。
大戦直後の人たちは、我々以上に犠牲者へのシンパシーを感じていたであろうから、当時としては当然の表現だったと思う。
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現在、この映画のメッセージをどう受け止めるか。ゴジラのみでなく、戦争を扱った映画に対する受け止め方は、必ずと言っていいほど割れてしまう。両極の意見が激しくぶつかり合い、解釈によっては右傾の人にも左傾の人にも支持される映画というのもあり得るだろう。
ぼくは、結果として犠牲になった人に対しては、弔いの気持ちを捧げ悲しむが、犠牲になることを、決して目標や手段にしてはならないと思っている。
もし、ミャンマー国軍を打倒し、長年の国民の悲願である本当の民主化を達成できる術があったとしても、討伐のために、あと何万人もの命が失われるであろうことが目に見えているのなら、ぼくは軍政のままであってもいいとさえ思っている。
悪者は、いずれ滅びる。必ず成敗される。その瞬間を自分が生きているうちに見てみたい、その後の世界を生きてみたいと願う気持ちはわかる。ぼくもそれを願っている。
けれども、その夢の実現のために、命を惜しまぬ若者の勇気と体力に期待するというのは、大人たちのエゴではないのか。なぜ、まだ人生の半分も生きていない若者が矢面に立たなきゃならないの?そして死ななきゃならないの?
以前もこのサロンで述べられていたが、遠いところからいろいろとアイディアやら戦術やらを展開する先生方、そんなに自分の理論に自信があるのなら、最前線の部隊の先頭に立って自らが手本を示せばいいじゃないか。
民間兵士の存在を捨て駒としてカウントしているような戦術ならば、残忍な国軍トップの思考回路と何ら変わらないじゃないか。
シン・ゴジラとゴジラ-1.0の間には、昭和から息づくもう一つの、いや、一人の特撮ヒーローが復活していた。その名は、ウルトラマン。
それまでも、テレビや映画では後継のヒーローたちが活躍していたが、新たに描かれた「シン・ウルトラマン」は、1970年代以来続いていたウルトラファミリー路線とは一線を画し、第一作目のコンセプトに原点回帰していた。
沖縄出身の稀代の脚本家、金城哲夫さん、変幻自在の天才アーチスト、成田亨さん、史上最もエレガントなスーツアクター、俳優の古谷敏さんらによって誕生した元祖「ウルトラマン」だ。
毎週一話のそれぞれのエピソードは、やはり昭和のヒーロー物らしく勧善懲悪の展開が多かったのだが、野心に満ちた脚本家たちが時々挟んでくる子供向けとは思えない異色のエピソードの影響もあってか、全話を通して観て、残ったウルトラマンの印象は、無類の強さではなく、慈愛に満ちた優しさであった。
その最終回のエビソードでは…(ネタバレ注意)
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地球上において自分の命を託している分身のようなハヤタ隊員はまだ若い。どちらかが死ぬのなら、もう2万年も生きている私のほうだとウルトラマンは言う。
命の重さは、世の中への貢献度などで測られるものではなく、各々が与えられた寿命の限界まで生きるべきなんだと、金城さんは諭したかったのではないだろうか。
令和に登場した新たなウルトラマンの制作陣も、元祖ウルトラマンの理念を踏襲しており、優しさの象徴であるかのごときウルトラマンの魅力が全編に満ちていた。
彼は、友に対し人類に対して最善の努力を求める。けれども、決して犠牲は求めない。とことん頑張ったその先にある運命は、天空の我々が決する、とでも言わんばかりに。
ぼくは、「シン・ゴジラ」の「シン」は「真」とは認めない。けど、「シン・ウルトラマン」の「シン」は、まさに「真」だった。
人知を尽くして天命を待つ、それが、地上の人ではない稀人(まれびと)、ウルトラマンの壮大な物語なのだ。
…………………
そして、混沌の時代に出現した「ゴジラ-1.0」。
事実に基づく戦記物の他、架空の創作戦記物やファンタジーなど、戦争を題材にした映画は星の数ほどあるが、戦争から何を教訓とすべきか。
ぼくは、「ゴジラ-1.0」が、一つの答えに到達したと感じた。
人は、いつ死んでもいいと思えるほど、その日その日を一生懸命に生きなければならない。
結果として犠牲になった人たちには哀悼の意を捧げよう。けれども、犠牲になろうとする行為を決して称えてはいけない。
死ぬことを目標にしてはいけない手段にしてはいけない。
寿命が尽きるまで生きる努力をすることこそが、この世に生を受けた者の目標であり、守るべき使命なのだ。
死ぬ覚悟を持って日々を過ごせ、そしてとことん生き抜け、絶対に死ぬな!
それが、「ゴジラ-1.0」からぼくが受け取ったメッセージだった。
自分はまだまだそこには到達していないのだが…
振り返ってみれば、ゴジラでもウルトラマンでも人と人との戦いは描かれていなかった。
人類が一致団結して立ち向かうべき相手は災害なのだ。地球が大変動を始めた今だからこそ、なおさらに。
今年、ミャンマーの暫定政府である国軍は、徴兵制の実施を発表し、国民の間に動揺が走った。
ヤンゴンでビジネスマンとして自立している友人は、密かに反国軍組織に寄付をしている。
けれども、自分の子供は徴兵要員に選ばれないよう裏で対策を打っている。もちろん、反国軍の軍隊に入隊させるつもりもない。
元国軍兵士の友人は、クーデターの直前、30代半ばで退役し、民間人となった。
徴兵制が施行された今も再招集に応じる気はなく、電話番号も変えている。
兵士時代に何があったのかは語らないが、二度と兵士にはならず、残りの人生は、妻と子供を守るために生きるんだと言う。
彼らの本音は、多くの大人の心情そのものだと思う。
ミャンマーの若者のみなさん、どうか死に急がないで。
心ある大人は、決してそれを望んではいない。我が子に対しても、よその子に対しても。
名前なんか残さなくていい、与えられた限界まで命を残してほしい。
あなたたちは、捨て駒ではありません。あなたたちは、国の宝です。
来たるべき日のために、その命を大切に、ずっと生き抜いてください。
どうやって壊すか、どうやって殺すかではなく、誰も傷つけずに平和な国を勝ち取る方法を本気で考えようじゃないですか。
戦国の時代から人類がどれほど進化してきたのか、今こそ見せてやろうじゃないですか。
無血の勝利は、武器を持って戦うことよりも遥かに難しくて遠回りかもしれない。
けれども、それを可能にすることこそが人間が人間である証しだと、ぼくは信じる。
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