不純異性交遊から、性犯罪被害者へ
このことを明かすのはたいへん勇気のいることなのですが、中学時代の初体験についてもこの際、打ち明けてしまおうと思います。私の意図は、同じように悩んでいる人のお役に立てればいいな、という思いからです。
14歳から既に何度も霊と交わっていた私は、お臍から太ももまでの下半身だけは、自分のコントロール下になく、あの世に持っていかれているような感じが常にありました。この世に確かに生を受けて、生きているのに、自分はこの世に生きている人たちと完全な仲間ではない、どこにも自分の理解者はいない、というような疎外感がありました。
そして、ひょっとして普通に人間と交われば、霊も遠退くんじゃないか、人間と愛しあえば霊も諦めて、離れてくれるんじゃないか、あのような行為は止むんじゃないかと期待を持ったのです。
それで私は初めて異性から身体の関係を求められたとき、まだ子どもだったのに、親の躾に耳を塞ぎ、拒否せず相手を受け入れました。その時思ったのは、「やっと人間と、できる。これで、普通の人に、なれる」ということでした。
下半身にコントロール感を取り戻せた感じがしました。無理矢理強要されるのではなく、受け容れるか、受け容れないかは自分で選択したかった。自分で選択して、人間を受け容れたのです。
初めての人間との交わりで、何よりびっくりしたのは、痛いだけで、不快でしかなかったことと、激しく腰を振られたことでした。霊は腰を振るなんてことはなかったので、心底、びっくりしました。どこかはわからないけど、身体のこの辺に入ってくるということ以外は、結局は何も知らなかった自分に驚きました。自分では自分は大人だと思っていましたが、私はまだまだ何も知らない子どもでした。
帰宅したら、下着に少量の血がついていました。お風呂に入って身体を洗ったら、あそこの形が、閉じていたところが外側に向けて剥き出てしまっていました。取り返しのつかないことをしてしまったと思い、愕然としました。
その上、霊との交渉はその後も全く止まなかったのです。痛い思いをして、まだ子どもなのに、決意して、処女を失ったのに、純粋無垢な女性から汚れた女性へと転落してしまったという後悔の念が押し寄せてくるだけで、事態は何も変わらなかったのです!!
それ以来、「不純異性交遊」という言葉が重くのしかかってきて、罪悪感と後ろめたさに苛まれ、ずっと苦しい思いをしていました。将来、お嫁に行く時に大変なことになるんじゃないか、私はなんてことをしてしまったんだろう、霊が変わらないんだったら、こんなことするんじゃなかったと、心底、後悔しました。
霊障が止まなかったことには、ほんとうに、心底ガッカリしました。
それなのに、私はそんな風に期待して人間と性行為してみたことも、期待通りじゃなくて心底ガッカリしたことも、つい最近まですっかり忘れていたのです!!
もし私に霊障がなければ、あるいは両親や身近な人に相談して対処できていれば、私の人生は違っていたんだと気づいた時、過去に封印したことを意識に上らせて、自分をまるまま、あるがまま、人生の物語に組み込んでいかないと、ほんとうの物語が編めなくなるんだなと思いました。そして、生まれてきた意味も、この世での役割も、わからなくなってしまう。その人にとって根深い問題こそが、人生最大の課題に直結しているのではないかと思います。私の場合は、それが「性」でした。
私の中に答えがあるわけではありませんが、ただ、コロナパンデミックが始まり、風俗ではたらく女性たちに関する報道が過熱していた2020年春、現代人が性に纏わり付かせてきた余計なものを取り払い、元の状態に戻すのが私の役割だというメッセージが突如、下りてきたのです。
自分の一番深い悩みを誰にも相談できないまま過ごしていた高校卒業前、友だちがカトリック信者になる勉強を始めました。私に信仰を与えてくださったシスターと友だちが毎週1回、放課後に対話することになり、私も同席させてもらうことにしました。
校内でも飛びきり個性的だったシスターとの対話は面白く、「私たちはいつ、いのちを与えられると思う? そう、受精の瞬間ね」など、カトリック女子校らしからぬ問答が続きました。
中学のとき、マザーテレサのドキュメンタリー映画を見て、インドに行かず、両親の近くでマザーテレサをお手本にした生き方をしようと決めたので(多くの同級生が同じ決意をしていたことを後に知りました)、私もカトリック信者になろうかなと思わなくもなかったのですが、問答は哲学や精神世界の話題に終始しました。私の秘めた悩みを打ち明けられる場ではないことを痛感し、以来、キリスト教からは距離を置くしかありませんでした。
大学に入り、馴染みの友人たちと離れ、私の疎外感は募るばかりでした。途中からシスターとの問答に参加しなくなったので、高校時代のカトリック信者の先輩が心配して、関西でもとびきり個性的な神父様のところへ連れて行ってくれましたが、「キリスト教はやっぱり建前だけ!」「自分とは違う幸せな人たちの宗教」と思えて、心を開く気にはなれませんでした。
大学では、中高時代のように心を開いて話せる友だちもできず、勉強にも身が入らず、相変わらず霊に襲われ続けて、安眠できず、フラフラの日々。そんな毎日に疲れて、誰かに連れられて、神戸の男性占い師に悩みの相談に行きました。その占い師に目をつけられたのか、途中から長時間、話し込むようになりました。何度か通ううち、「キリスト教に真実はない、自分は真実に通じている」と言われ、「真実を知りたい、この迷いの状態から抜け出し、救われたい」と思った私は、その男のいう宗教の「入信の儀式」を受けることにしました。その儀式とは、その男とセックスすることでした。「自分との交わりは、神との交わりだから、妊娠の危険は一切ない。男の自宅で、儀式を行う」という話でした。
霊にさんざんされてきていたので、身体に何かをされることには慣れていました。自分の身体を大事に思えませんでした。いまさら守る操もなかったのです。それで救われるならお安い御用という感覚でした。
ところが当日になって、なぜか、自宅ではなくラブホテルに連れて行かれ、裸になって、口と手で射精の手伝いをさせられました。身体めがけて静液をかけられ、儀式は終わりました。
終わって、その男に言われるがまま、ひとりお風呂に入って、身体を洗おうとした時、ツーッと右目から大粒の涙がお臍の下まで流れ落ちてきました。感情の動きは全くないのに、こんなに大粒の涙が溢れ出てきたことに驚くと同時に、私は汚されたのだと悟りました。
それからその男のところへは二度と行きませんでした。
覚悟はしていたのに、性交渉はされず、口と手だけで済んだのは、何かが守ってくださったのだと思います。
この経験があるから、霊はこの男のようには狡猾でなかったと思えるのです。
狡猾かどうかは、非常に大きなポイントだと思います。
狡猾といえば、医者も多いですね…。
高校の時、子どもの頃から通っていた医者に、「乳房の左右の位置で身体の歪みを見るからとブラを外して立て」と言われ、じーっと乳房を凝視されたことがあります。終わってから、なんだかおかしいなと思いました。
また、体育の授業か何かで身体を傷め、父の行きつけのマッサージに行った時には、傷みと全く関係のなさそうな股の周辺ばかりを揉まれ、あそこの形を確かめるかのように指を伸ばして触られました。
いま思い出すと、バカバカしいにもほどがある。女性なら、思い当たることがあるでしょう? 黙って信じて従っていた自分がバカみたい。倫理観のない男ども、いい加減にしろ!
若い女性がもしこれを読んでくださったら、自分で自分の身を守るしかないところがあるから、騙されないように、賢く生きていってほしいと思います。