2023年2月20日~飯野賢治著『ゲーム』、飯野賢治+ワープ『WARP ワープ会社案内』、ほぼ日『岩田さん』~

2023年2月20日夜。
そろそろ寝ようかと思っていたところで、Yahoo!ニュースに『飯野賢治没後10年。』(Game Spark 2023年2月20日 22:00配信)という見出しを見つける。

そうか、彼が亡くなってもう10年が経つのか……
記事も読まず、感慨に耽ってしまう。

私は彼とは全く面識がない。
彼はゲームクリエーターだったが、私はゲームをやらないので、彼が作ったゲームで遊ぶどころかゲームそのものすら見たことがない。
しかし、同じ1970(昭和45)年生まれ(私は彼より数カ月後生まれ)で、若くして自らの才能を活かして活躍する彼の姿は、何の才能もなく単なる出来損ないの私の憧れであり、同じ年に生まれたことを勝手に誇らしく思っていた。

寝ようと思っていたが、気になって、本棚から彼の自叙伝『ゲーム』(講談社、1997年)と、彼が興した会社「WARP」の社員たちのインタビュー集『WARP ワープ会社案内』(北都、1998年)を取り出してみる。

彼はいわゆる落ちこぼれで高校を中退し、フラフラした時期を経て、小さなゲーム開発会社に潜り込む。
『ゲーム』によると『それは18歳の9月ぐらいのこと』とあるので、1988年あたり、バブル絶頂期で、社会全体がまだ未成熟で、それゆえ何もかもが怖いもの知らずの無謀さに満ちていた頃だ。
ゲーム業界もそのうちの一つで、やっぱり彼は、そういう過渡期に、時代に望まれて生まれてきたのだろうと思う。

僕が入ったときは、その会社、社員は10人もいなかったと思う。
(略)
(会社で古参の)ヤマさん、たくさん仕事を抱えはじめていた。
その仕事のひとつに、バンダイからのオファーで、ウルトラマンのゲームをつくってくれっていう企画があった。
でも当時、企画担当の人間がなんだかんだっていろいろうるさく文句を言っていたもんだから、僕は「それ、なに? ヤマさん」って横から首を突っ込ませてもらったんだ。
(略)その仕事をもらって、シナリオをさっそく見たわけ。(略)そのシナリオ、つまらないの、メチャクチャ。(略)
その場で「ダメだ」って一言いってビリビリ破いてね。(略)
で、すぐにその会社に行って「悪いんだけど、このシナリオ全然おもしろくないんで僕がやってもいいですか」っていう話を切り出した。
結局、「いいよ」って返事が返ってきて、僕がシナリオをやることになった。

『ゲーム』

今の大規模なゲームソフト開発からは想像もできない、本当に牧歌的なエピソードだが、そういった今の礎となる黎明期だったからこそ、彼みたいな存在が時代から望まれたのだと思う。

その会社に1年ぐらいいて、彼は会社を辞める。
同時期に辞めた2人とともにゲームを企画する会社を立ち上げた。

そんな僕らがまず飛び込んだのが「ハル研究所」っていう会社。
(略)
ハル研って、オリジナルだけじゃなくて、任天堂の下請けをやっていてさ。
『マリオのゴルフ』なんかは実はそこがつくっていて、そういうのを耳にして。
「この会社なら信用できるな」と思った。
(略)
ハル研とは、よく打ち合わせをしていたよ。(略)
部長のイワタさんっていう人にもいろんな話を聞かせてもらった。いま彼はハル研の社長になって、『マザー3』のプロデュースをやっている。よく『ファミ通』なんかに載ってますけど。

(同上)

……余計なとこ読んじゃったな……
もう日付が変わろとしているのに、私はまた本棚を探りはじめてしまう。
『ゲーム』が出版されたのは、1997年。
当時ハル研の社長だった『イワタさん』とは、2002年に任天堂株式会社代表取締役社長に就任し、2015年に逝去された、岩田さとる氏のこと。
本棚から取り出したのは、ほぼ日刊イトイ新聞・編『岩田さん』(ほぼ日ブックス、2019年)。

(略)運命のめぐり合わせがあって、私が(HAL研究所の)正社員になった翌年に、任天堂からファミコン(ファミリーコンピュータ)が発売されるんですよ。
(略)
HAL研究所に出資していた会社のうちの1社が、たまたま任天堂と取引がありまして、その会社の人に任天堂を紹介してもらいました。
(略)
請け負ったのはゲームソフトのプログラムでした。それが任天堂とのつき合いのはじまりです。ファミコンの初期に出た『ピンボール』や『ゴルフ』はわたしがHAL研究所の人と一緒につくったものです。

『岩田さん』

岩田氏がHAL研究所の社長に就任した頃、会社は経営難だった。それを彼は何とか立て直す。

会社が息を吹き返す大きな契機となったのは、『星のカービィ』です。

(同上)

……おっと、文章に引き込まれて読み耽っていると、寝られなくなってしまう。

『岩田さん』を閉じて『ゲーム』に戻る。
飯野氏の会社も上手くいかず、登記だけは残っていたが、事実上解散状態にあった。

自分のせいだと反省した飯野氏は、会社立ち上げメンバーの一人である『ミウラ』とともに、やり直そうと誓う。

出直しのはじまりだ。
さっそくマッキントッシュを買って、ミウラはポリゴンの研究にとりかかるんだよね。
(略)
「(以前から知り合いだった)タテイシと一緒になんかやりたいな」と思って(略)タテイシに(略)電話をかけたわけ。
「あ、ショーちゃん?なにやってんの、最近?」
「いやあ、飯野さん、今度『アミーガ2000』っていうコンピュータを買ったんですけど、これスゴイっすよ。CG、すげえきれいですよ。ビデオトースターですよ、これからは」と彼は言うんだ。
俺見に行ったんだ、タテイシの家に。「見せてよ、見せてよ」なんて言って。
そうしたらアミーガ2000のリアルタイムポリゴンってみんな速いし、「これだあ!」と俺は瞬間的に思った。(略)
「ああ、やっぱりこれからはポリゴンだな」
アミーガのモニターを見つめながら改めてそう思った。
それで、僕はタテイシとミウラを誘ってWARPをつくることを決意するんだね。
1994年、3月1日。
この日がWARPの誕生日なんだ。

『ゲーム』

『WARP ワープ会社案内』を開く。
この本の奥付が1998年2月になっているから、WARPがそろそろ創立4年になろうとしている頃だ。
その頃、WARPには飯野氏を含め21人のメンバーがいた。
『WARP』は、21人のメンバーが、各々の仕事内容や入社のきっかけ、WARPへの想いを語ったインタビュー集という、ちょっと変わった本だ。
そのメンバーには、もちろんタテイシ(立石章三郎)氏もいる(ミウラ氏はいない。『WARP』の中で飯野氏は『三浦君って昔ワープにいた奴』と語っている。『ゲーム』を読み返せば経緯はわかるかもしれないが、そろそろ寝なきゃ……)。

飯野氏はWARPを「バンド」に例えているが、その見方も彼らしい。

俺、「WARPは会社じゃない、バンドなんだ」ってよく言うんだ。
そもそもふつうの会社というのは、経営者がルールを考えて、システムをつくって、最低保障をして、その経営者の思想にのっとって従業員が言われたとおりの仕事をして、その対価とする報酬を持っていくという感じ。
(略)
いまのWARPは必ずしも「全員仲よし!」っていうわけではないところもまたいいところだと思っているね。ちょっと合わないところがあったりするのも、バンド全体として見ればよかったりすることもあるし。ま、その見極めが難しいんだけどさ。
(略)
メンバーどうしの仲がちょっとギクシャクしてきて、「あいつにだけは負けたくねえぜ!」みたいなライバル心をみんなが発揮してそれぞれが実力以上のパフォーマンスを出す、みたいなことって実際にあるんだ。

『ゲーム』

飯野賢治氏は、2013年2月20日に亡くなった。
Wikipediaによると、死因は「高血圧性心不全」。
彼は、オンラインゲームが一般的になったり、誰でもバンドを組まず一人で自宅でバンドサウンドを作ってネットで配信できる現在を知らない。
コロナ禍も知らないし、それによって公私ともに一つの場所に集まることなくネット上でコミュニケーションできるように進化したことも知らない。

ゲームのプラットフォームも進化し、それに対応するゲームの開発も数十人ではきかないような大規模なものになっている。

今どき「会社はバンドだ」なんて、古臭いか青臭いかという感じで嘲笑されるだけなのかもしれないが、かつては、それを本気で信じて行動を起こしていたヤツがいたのだ。

私はかつて、彼に憧れ、同じ年に生まれたことが誇らしかった。
私は彼より10歳年上になった。
私はやっぱり、今でも彼に憧れ、同じ年に生まれたことが誇らしい。
と同時に、それは彼に対して申し訳ないかな、とも思う。

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