阿古真理著『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』から見る、戦後の女性史と「料理研究家」

2022年2月10日配信のオリコンニュースに「1974年4月から48年間続いた料理番組『おかずのクッキング』が最終回の収録を終えた」との記事を見つけた。
SNSなどで一般の人たちが手軽に料理動画を配信できる時代、我々は日本国内に限らず世界中から膨大なレシピや食文化の情報を簡単に入手できるようになった。
マスコミやプロより一般人の情報が有益になった今、料理番組はその役目を終えようとしているのかもしれない。

阿古真理著『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』(新潮新書、2015年。以下、本書)を読んでいて、時代と食とは密接に関係しているんだなぁと思った。
食の中でも、とりわけ「料理」の側面から見れば、それが女性の立場(「権利」と言ってもいい)やライフスタイルに大きく影響を及ぼし、戦後から21世紀の現代まで、社会全体を巻き込みながら、それこそ大河ドラマのような変遷を辿ってきたことがわかる。
その中で、「料理番組」や「料理研究家」が時代の流れによって誕生し、時にそれらが時代を創造し、そして時代が大きく変わっていった。
本稿では、本書の第1章に書かれた外国料理の流れを中心に、特に「女性史」とそれに関わる「料理研究家」の歴史を見ていこうと思う。

「料理研究家」と「主婦」の誕生

家庭料理のレシピを考案したり教える料理研究家は、明治に誕生した。
1882(明治15)年、東京・日本橋に開いた赤堀割烹教場(現赤堀料理学園)が、初の女性向け料理教室である。公家の末裔で料理屋を営んでいた赤堀峯吉は、明治維新をきっかけに料理教育者になろうと決意する。

しかし、開国間もない明治時代にあって、赤堀は純粋に「女性のために」と料理教室を開いたわけではない。

男性が社会で活躍するには食事が大事だが、「家庭の中で柱ともなるべき女性が十分な教育を受けていない」(『近代日本の民間の調理教育とジェンダー』今井美樹、ドメス出版、2012年)からである。

赤堀は『歴史に残る二つの貢献をしている』と、阿古は指摘する。

昭和前半のお母さん像のアイコンにもなった割烹着を考案したこと、文部省に女学校の教育科目に割烹と実習が必要であると認めさせたことである。

本書によると、「主婦」という言葉は「使用人を監督する女主人」という意味合いで明治半ばに生まれ、広く一般化したのは大正から昭和初期にかけてだという。

都市部に中流層のサラリーマンがふえ、その妻たちは自ら台所に立つ。彼女たちが支持した『主婦之友』によって、主婦という言葉が一般化する。

敗戦後、テレビ放送の開始と「高度成長」の流れに乗り、「料理番組」とそれに出演する「料理研究家」が求められ、それらが時代を創造していくことになる。


料理番組の誕生と「きょうの料理」の悩み

1953(昭和28)年、テレビの本放送開始。

最初に人気を博した料理番組は、1956年春、日本テレビで月曜日から土曜日の午前11時45分から12時までの放送で始まった『奥様お料理メモ』である。放送開始から間もなく、ニュース並みの高視聴率30パーセントを取り、追随番組を生んだ。(略)。(1957年)11月にはNHKの長寿番組『きょうの料理』が始まる。

阿古は『きょうの料理』という番組名は『秀逸である』と言う。
『なぜなら、放送開始以来、主婦は「今日の料理」を何にするか悩み続けているから』。

献立の悩みは、近代になって「主婦」と「家庭」が成立したときに生まれた。(略)
主婦、家庭という言葉が広まったのは、日清・日露の戦争をきっかけに産業革命が進行し、都市部でサラリーマン層が生まれてからである。一人で台所に立つ主婦たちは、日々献立を立てて食材を購入しなければならなかった。

高度成長期、集団就職で都会に出てきた男女が結婚し、団地やアパートで生活を始める。
1950年代に、全国各地にスーパーマーケットが誕生していく。
「土間の台所」から「板の間のキッチン」になり、ステンレスの流し台が入り、水道、都市ガス、プロパンガスが全国に普及する。

サラリーマンの多くは田舎から出てきた次男三男だったから、家に舅姑はいない。つまり、台所を好きに使える。「今日のご飯は何にしよう」と一人悩めるのは、台所の女主人となった主婦たちの喜びでもあった。


外国料理から見る「流行のライフスタイル」

料理番組を見るのは「今日の献立」の参考のためだけではない。

海外旅行など一般庶民には夢のまた夢だった時代、料理番組はそれまで見たこともない外国料理を紹介した。
主婦たちは料理番組で紹介される料理を知り真似るだけでなく、その料理によって海外のライフスタイルをも疑似体験したのである。
だから、料理研究家の流れを追うと、戦後から現在までの女性史が見えてくる。

高度成長期:「専業主婦」の誕生

この時期、外国料理といえば西洋料理だった。
陸軍造兵廠の技術官の夫が渡仏する際に同行し『パリの一流料理学校、ル・コルドン・ブルーに入学してフランス料理を学』んだ江上トミは、『マンガ『サザエさん』で描かれる料理研究家のモデルになるほど、時代を代表する顔となった』料理研究家である。

江上は自身の経験から西洋料理を多く紹介したが、しかし同時に、幼少期からの母の教育もあり、「女の本分は家庭にあり」とする価値観も繰り返し主張した。

「おいしいものを食べさせてやろう。珍しいもので驚かせてやろう、という主婦の努力は、そのまま家庭円満につながり、子孫への味の伝承にもなります。(略)」(『江上トミの料理一路』津谷明石、朝日新聞社、1978年)

しかし、高度経済成長期で激しく時代が移り変わる。海外では「ウーマンリブ」の風が吹き荒れている。
この時代の急激な変化に、主婦たちは動揺した。

主婦たちの動揺は、江上の時代にくり広げられた三度の主婦論争に表れている。1955~59年の第一次は主婦は外で働くべきか否かが、1960~61年の第二次は家事労働の経済的価値について、1972年の第三次は主婦役割の正当化が主題である。主婦のパート労働が広がったこの間に、専業主婦という言葉が生まれて定着した。論争は、高度成長期とぴったり時期が重なる。


1970~80年代:憧れのホームパーティ

本書によると、1970~80年代の主婦が憧れたのが「ホームパーティ」だという。

郊外に落ち着く家族がふえたのと時を同じくしている。古いしがらみから逃れ、郊外に移り住んだ家族は、近所づきあいついでの茶飲み会ではなく、西洋の香りがするパーティを企画し、友人たちを招こうとした。テーマ曲「恋に落ちて-Fall in Love-」(小林明子)も大ヒットした1985年の連続ドラマ『金曜日の妻たちへⅢ』は郊外が舞台で、テラスで開くホームパーティの場面がくり返し登場する。
このドラマでもそうだが、「パーティ」であるからには出す料理はすしや煮しめではなく、テリーヌやローストチキンといった本格的な西洋料理であるべきだった。

そんな主婦たちの憧れに応えたのが『入江麻木がレシピを提供する、その名もずばり『パーティをしませんか』(鎌倉書房、1979年)である』。
そこで入江(彼女の娘婿は世界的マエストロ・小澤征爾氏)が紹介しているのはレシピだけでなく、パーティという「ライフスタイル」である。

それはたとえばこんな風だ。
「パーティというとクリスマスやお誕生日などの大きな催しばかりを思い浮かべがちですが、私が感心したのは、心のこもった日常的な小さなおもてなしの数々」
「料理もその家その家にあったものでおもてなしをしてこそ、心も伝わるのではないでしょうか」

主婦たちは、テレビで美男美女の俳優たちが繰り広げる華やかなホームパーティに憧れ、入江のレシピで料理を作り……
その彼女たちの努力の顛末は、ご想像にお任せする。

1980年代:新たな「手づくり」ブーム

高度経済成長期を経て、日本は「バブル経済時期」へと突き進んでいく。
その中にあって、「主婦」を中心とした「女性」の間で、「お菓子」「パン」「ジャム」などを作ることが流行する。
この時期、料理だけでなく、パッチワークやキルトなどの手芸も人気となる。

つまり、流行ったのは「手づくり」なのである。

しかし、ここで言う「手づくり」は、旧来の『日々の着物を繕ったり、古い着物をほどいて再生したり、漬物や味噌、乾物といった保存食品を手づくり』することではない。

洋服が既製品で手に入り、保存食がなくても困らない昭和後期、女性たちは西洋文化の香り漂う手づくりに憧れた。着物や糠漬けは昔のものだが、ジャムやパッチワークは新しくておしゃれだった。それが『赤毛のアン』が舞台とした19世紀後半から20世紀初めのカナダの人々にとっては、着物や漬物と同じ日常の必需品だったとしても。

本書では、こうした流れの源流にいる一人として、1977年に雑誌『nonno』(集英社、1970年創刊)に掲載されたピーターラビットをイメージしたレシピをきっかけに人気を得る、『「ラブおばさん」の愛称で親しまれた料理研究家、城戸崎愛』を紹介している。
ここから始まったイメージレシピはブームになり、『プーさん』『メアリー・ポピンズ』『大草原の小さな家』『赤毛のアン』『トム・ソーヤ』『不思議の国のアリス』と広がり、つまりは、それらのイメージが「(憧れとして空想する)西洋的手づくり」なのである。

バブル期:雑誌『LEE』『Hanako』創刊。新時代の料理研究家誕生

城戸崎愛が「ラブおばさん」として人気者になっていた1983年、主婦向けライフスタイル雑誌『LEE』(集英社)が創刊された。主婦に寄り添う記事を載せた文字中心の総合雑誌『主婦の友』などの時代はそろそろ終わる。イメージ優先の時代が始まった昭和後期、すてきな暮らしを提案するグラビア雑誌が登場する。

そして『すてきな暮らしを提案する』この雑誌から、多くの料理研究家が誕生する。

テレビキャスター栗原玲児の妻、栗原はるみ、イラストレーター和田誠の妻でシャンソン歌手の平野レミ。そして有元葉子である。

1980年代後半、男女雇用機会均等法の施行により女性の社会進出が活発になり、彼女たちが自身で得た給料で外食する機会が増えた。

1988年に首都圏で発売された情報誌『Hanako』(マガジンハウス)は、しばしばグルメ情報を載せて流行を生んだ。

そんな『Hanako』が生んだ流行語の一つに、今や一般的に定着した「デパ地下」がある。
デパ地下がブームとなる先駆けが、『色とりどりのレタスにパプリカ、ひじきやごぼう、かぼちゃ、海藻、刺身、肉などを組み合わせる斬新で色鮮やかなサラダ』が人気となった、『総菜メーカー、ロック・フィールドが1992年に始めた洋総菜のブランド「RF1」だった』。

本書によると、有元のサラダは、RF1のショーケースに並ぶそれと遜色なかったという。

平成:ベトナム料理とカフェ、「男子」料理家の登場

1980年代後半から盛んになった海外旅行のブームは初期のアメリカ・ヨーロッパを経て、1990年代半ばには東南アジアへと移っていき、その頃からベトナム料理が流行り始める。

有元葉子は、ブームに先駆けてベトナムを発見している。きっかけはホーチミンに住む姪を訪ねたこと。最初はホテルを出るのも怖かったのが、いつの間にか屋台で食べ、市場で買い出しをし、お気に入りの器を求めて歩き回るようになる。(略)買ってきた器に有元のベトナム風料理を盛りつけて。若い女性たちの間に広まったベトナムブームは有元らがつくり出したとも言えるのである。

そして、ベトナムを始めとした「アジア料理」のブームが訪れる。
それらが一般化したのは、『1990年代後半から2000年代前半に起こったカフェブームがきっかけだった』。

1980~90年代に入ってきたアジアの味を、どのように使えばジャポニカ米を中心にした日本の食卓に合うか、その提案をしたのがカフェの料理だ。(略)有元の料理は、もしかするとカフェ店主たちのヒントになったかもしれない。

ちなみに、アジア料理が流行したのは、世界各国の調味料が手軽に入手できるようになったことも一因だが、それは「ブームのおかげ」ではない。

調味料に関しては、塩の専売制が1997年に廃止され、2002年に輸入が自由化される転機があった。国内外のさまざまな塩がスーパーの棚にも並び、つられるように他の調味料へも関心が向かう。

つまり、料理の変遷には、その時々の「社会情勢」も大きく関わっているのである。

「社会情勢」といえば、20世紀末に登場した「インターネット」も同様だ。
特に、21世紀にはブログやSNSで「一般人」「素人」が紹介する料理が話題になり、その中から「カリスマ主婦」などと呼ばれる人たちが出現する。

そして、「男女平等」が(見かけ上)当たり前の世の中になり、「男子」の料理研究家も広く認知されるようになるのである。
(この辺りについては、現在進行形でもあり、これ以上は説明しない。というか、説明し始めると本稿が終われなくなってしまう……)


本書について

以上で説明してきたのは、本書の第1章に当たる部分である。
著者の阿古氏は「まえがき」で『料理研究家を語ることは、時代を語ることである』と宣言する。
本書は以降、その宣言に従い、タイトルにもあるとおり「小林カツ代」と「栗原はるみ」をフィーチャーしながら、料理研究家の変遷とともに、如何に時代が彼女らを求め、そして、如何に彼女らが時代を創ったかを、解き明かしていく。
なお本稿は外国料理を扱ったが、本書ではもちろん、土井勝氏らを始めとした「和食」にも多くのページを割いている。

本書の中で阿古氏は、紹介した料理研究家たちのレシピを実際に作ってみて、当時の食材や調味料、調理器具などの「台所事情」を考察したりもしている。

この「料理研究家を研究する」という一風変わった本書は、料理を作るのが好きな人だけでなく、ただ単に美味しいものを食べるのが好きな人が読んでも、興味深い内容になっている。



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