舞台『未練の幽霊と怪物『挫波』『敦賀』』を観て思った取り留めのないこと…(感想に非ず)

ここのところ、日本伝統芸能である「能」に注目が集まっているようである(私の周囲だけかもしれないが)。

狂言師の野村萬斎氏が芸術監督を務める東京・世田谷パブリックシアターでは2003年から「現代能楽集」シリーズとして、能と現代演劇の融合を試みている。

文学の世界では、たとえば、作家のいとうせいこう氏が、能をベースにした『夢七日 夜を昼の國』(文藝春秋、2020年)を出版している。

何でもかんでも言葉と映像で説明されることが日常化しており、自身が理解できなければ一刀両断「わからなかった」と低評価をネットに書き込んでしまう現代にあって、何も説明されない「能」が注目されているのは、不思議だ。
しかし、逆に考えれば、何でもかんでも説明されることに慣れっこになったが故に、「自分の感覚で何かを感じ取ってみたい」という欲求が現れてきたということかもしれない。

KAAT 神奈川芸術劇場で、現在(2021年)上演されている『未練の幽霊と怪物』(岡田利規作・演出。以下、本作)も、能と現代演劇を融合したような芝居であった。
本作は『挫波』と『敦賀』という2本の芝居から構成されている。

なお、本稿は、私が本作を観ながら思ったことなどを取り留めもなく書いているだけであり、従って、本作の紹介でも批評でも解説でもないことを予め断っておく。


「夢幻能」

歌舞伎や能のような伝統芸能だけでなく、現代演劇にもフォーマットが存在する。
「フォーマットが存在するという前提」を理解(「知識」ではなく、どちらかというと「作法」としての理解)していないと、あらゆる芸能をちゃんと楽しめない。

本作は「夢幻能」のフォーマットに則っている。
「夢幻能」については、前出の「現代能楽集」の10作目で、2020年末に上演された『幸福論』(長田育恵、瀬戸山美咲作・演出)のパンフレットの解説(能・狂言研究家 小田幸子氏)を引用する。

能は成立以来ずっと目に見えないモノや超現実的出来事を舞台化してきた。その到達点が「夢幻能」と呼ぶ能独特の劇形式である。ゆかりのある場所に出現した霊魂(シテ)が、自らの過去を旅僧(ワキ)に語るという基本構想のもと、「伊勢物語」「源氏物語」などの物語作品、軍記物の「平家物語」や説話の類、あるいは非業な死を遂げた人物を取りあげ、「過去」を「今」に呼び戻し、現前化する手法である。

「ワキ」である旅人は、建設中の新国立競技場の傍(『挫波』)、敦賀原発を臨む敦賀湾(『敦賀』)で、「シテ」と出会う。

ただし本作の「シテ」は『非業な死を遂げた人物』ではなく、「(人間の都合によって)非業に世の中から抹殺された(或いは、されようとしている)モノ」の霊魂である。
その「(人間の都合によって)非業に世の中から抹殺された(或いは、されようとしている)モノ」が、「ザハ・ハディド氏設計の新国立競技場(『挫波』)」であり、「高速増殖炉もんじゅ(『敦賀』)」である。


「見立て」

能は「見立て」の芸術である。

現代劇はもちろんだが、能よりも歴史が浅い歌舞伎においても、舞台セットや小道具などで物語や場面を説明してくれるが、能ではそれらが一切なく、あるのは背景に描かれた松の絵だけである。

観客は「シテ」の舞や演奏される能楽などから想像力を駆使して場所やそこにあるだろう物などを「見立て」なければならない。
これを理解していないと、単なる「舞い」を観ているだけとなり、現代舞踏のように「舞踏の中に意味を見い出す」作業をしがちになる。
もっとも、本作の「シテ」は、森山未來氏と石橋静河氏という「ダンサー」であるので、「舞踏の中に意味を見い出す」ことは可能である。

ちなみに、2018年1月22日に放送されたテレビ番組『白昼夢』(フジテレビ)に出演した能楽師の安田登氏曰く、『「見立て」ができると能は凄く面白い』。
安田氏によると「見立て」は古事記が最初だという。
『天から降りてきたイザナギとイザナミが、そこにない「天の御柱」という凄い柱を「見立て」た』。
「見立て」とは、『観ることによって、実際にそこに立てちゃう。無いモノをそこに出現させる』ことだと言う。


もちろん、現代演劇にも「見立て」はある。というか、「見立て」がないと演劇は成立しない。
そのことについて、劇作家・演出家・俳優である野田秀樹氏が、2012年に上演した『THE BEE』(野田秀樹作・演出、コリン・ティーバン共同脚本)のパンフレットでこう書いている。

芝居における男性による女役、或いはその逆、女性による男役が、すんなりと行くのは、舞台は「見立て」ることができるからである。舞台では、椅子を犬に見立てることもできるし、男を女に見立てることができる。大人を子供に見立てることも可能だ。これが、映像だと絶対に無理である。椅子は犬にならないし、男は女にならない。まして映像では絶対に、大人は子供に見えない(映像で仮に男が女を見事に演じたとしても、それは女装として成功している男でしかない)。
さらに言うならば、舞台上では、何もないところにも何かがあるかのように見立てられる。それは、「見えない小道具」とでも言うべきか。窓があることにするとか、ドアがあることにするとか、かくて、「見えない道具」がそこに見えてくる。或いは「見えない場所」がそこに見えてくる。こうなると殆ど演劇にできないことはない。

ちなみに、演劇ジャーナリストの徳永京子氏が2021年6月17日付の朝日新聞夕刊に寄稿した本作の劇評にて、『橋掛かりの松に代えて置かれたオブジェは工事現場のコーンにも、清めの盛り塩にも見える』と書いているが、これも立派な「見立て」である(私は「コーン」にしか見えなかった…。「見立て」が足りん!)。

さらに言えば、『挫波』は二重の「見立て」がされている。
観客は舞台上に存在しない「建設中の新国立競技場(或いは、我々はすでに完成形を知っているため、それかもしれない)」を「見立て」で出現させ、その上に幽霊になる前の「シテ」が見ていたように、「あったかもしれない新国立競技場」を「見立て」るのである。


岡田利規氏と能

前出の徳永京子氏の劇評によると、岡田利規氏の『能への接近は2013年頃から始まり、16年の能の現代語訳(河出書房新社「日本文学全集」)を経て一層本格化』とのことである。

「超口語演劇」とも評される岡田氏の作風は、もともと能と相性が良かったのだろう。
それは、本作のパンフレットで能楽研究者の横山太郎氏が、岡田氏が注目されるきっかけになった作品『三月の5日間』を引き合いに出して説明している。

横山 僕は「三月の5日間」(04年)を最初に観た時に「これは能だ」と直観しました。岡田さんの書く台詞の、他者の言葉を引用していくうちに他者そのものに変容していくというような仕組みは、能をはじめとする日本の語り物的な演劇と根源的に繋がっていると思ったんです。今回の戯曲でも、たとえば『敦賀』のアイが、よそから来る人について「こういうことがわかってないんだよね」なんて客観的に説明をしているんだけど、それがだんだん、相手に怒りをぶつける感じになっていったりするところは、岡田さんの演劇の初期のころから脈々と引き継がれているものだなと感じました。

ちなみに『三月の5日間』については、その「リ・クリエーション」を追ったドキュメンタリー映画『想像』について書いた拙稿を参照いただければと思う(ちなみに、この映画の監督である太田信吾氏は、本作の『挫波』で「ワキ」を務めている)。


幽霊となった「シテ」は誰に訴えかけているのか?

幽霊となった「シテ」は、音楽監督も務める内橋和久氏を含めた3人の演奏家と七尾旅人氏の歌をバックに、無言で踊る。
歌も状況を説明するようなものではない。「ワキ」も語らない
従って観客は、言ってみれば「パフォーマンス」から、頭と感覚をフルに活用して何かを「感じ取る」ことになる。

一般的な能であれば、「シテ」の恨みは特定の誰か、ということになるのだろうが、本作では「社会」、さらに言えば「空気」ではないだろうか。

「社会」とはつまり、「為政者の欺瞞」であり、「空気」とは「無批判・無思考で社会に(むしろ積極的に)流されてしまう大衆」である。

本作のパンフレットにある、建築史・建築評論家の五十嵐太郎氏の寄稿によると、『東京に舞い降りたUFOのようなザハの未来的な造形は、世界への発信力が評価され、2012年に国際コンペの最優秀案に選ばれた』が、日本のメディアに、『エキセントリックな外国の女性建築家が実現不能なデザインをごり押ししたことで、コストが膨らんだというイメージを流布さ』れ、『首相によって劇的な白紙撤回が宣言された』。

寄稿文によると『ネットに公開されたプレゼンテーションを見ると、圧迫感の低減、公共への開放、客席の配置、効果的な動線、経済性や工期の短縮など、よく練られたデザイン』であり、『図面がほとんどないというフェイク・ニュースも流れたが、実際はすでに安全性能評価と構造性能評価を取得し、確認申請を行い、着工のゴーサインを待つ状況』だったという。
そして、「白紙撤回」について、『当時の国会が安保法案の強行採決で紛糾していたことを踏まえれば、メディアに対する目くらましの政治判断だと疑われても仕方ないタイミングである』と指摘している。

かくて、「安保法案」への目くらましとして、奇抜なデザイン図や「コストが膨らんだ」「図面がほとんどない」と騒ぎ立てるメディアを利用し、それにまんまと乗せられた我々大衆は、ザハ氏とそのデザイン案をほとんどお祭り騒ぎのように糾弾し、白紙撤回した首相に熱狂的な喝さいを浴びせた。

原発については、2011年3月11日の人類史上最大規模の事故で「原発を推進した政府の欺瞞とそれを熱狂的に支持した大衆」の愚かさは、露呈されている。

本作の2人の「シテ」は、その時々の「空気」に流されてばかりの我々愚かな大衆に向けて、訴えかけているのである。


能は「一見つまらない」から長く続いている

前出の安田登氏によると、能は『完成してから650年以上経つが、一度も途切れていない』そうだ。
能が長く続いている理由を安田氏は、『一見つまらないから』と説明する。

こっちが、「ほら、こんなに凄いでしょ!」「凄いでしょ!」って言うと、だんだんあっち(観客)は「もっと凄いの観せて!」「もっともっと凄いの観せて!」ってなる。
こっちは行かないから。
お前たちがここに来いよ。

「説明不足の欠損状態」だからこそ、人はその欠損部分を積極的に「見立て」ようとする。だから、『全部説明したらダメ』。

その「見立て」ができるようになると、前述のとおり『面白くなる』。
「見立て」ができない人は『どうせ来なくなる』だけだから、放っておいて構わないというのが安田氏の考えだ。

これは誰にでも受け入れられることが半ば強要されているが故に説明過多・過剰になってしまう現代を生きる我々にとって、それらから解放されるための重要な処方箋になり得るのではないだろうか。


メモ

2021年6月12日の夜公演を観た(@KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ)。
昼は、同劇場の中スタジオで『虹む街』(タニノクロウ作・演出)を観たので、当日は半日KAATにいたことになる。
至極の半日……




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