探していたのは「自分」~映画『リング・ワンダリング』~
20世紀の終わりごろ、「自分探し」なるものが流行った。
『自分はどこから来て、どこへ行くのか』
ここで問われるのは、"事実として厳然としている"生まれ育った環境や、"どう生きてどんな最期を迎えるのか"といった「現実の自分像」とは無関係の、もっと根源的な「ルーツ」あるいは「魂」といった類のものだ。
その流行は、科学文明が高度に発達して、世の中のことは科学で説明がつく、という価値観が当たり前になったからこそ出現したのではないか。
「記憶」も脳科学などで説明がつく(と思われる)ようになり、さらに、外部媒体への「記録」も容易になったからこそ逆に、「自分を構成するもの」「自分が自分であること」が、その科学では説明がつかない、あるいは納得できないことに不安を覚えるようになったのではないか。
一方、「土地」というものには「記憶」「記録」がある。
科学的には「地層」があり、その土地に埋まっているものは学術的に価値があれば「遺跡」、なければ「ただ埋まっていたもの」となるが、そこで生きている(生きていた)人にとっては、「遺跡」なんかより「ただ埋まっていたもの」の方が、余程大切な「記憶」なのではないか。
たとえば、死んだ飼い犬が埋まっている土地(庭とか広場とか)は、かつての飼い主にとって、いつまでたっても消えない『大切な記憶』であろう。
映画『リング・ワンダリング』(金子雅和監督、2022年)は、自分の「ルーツ」を探す現在生きている男と、土地が持っている記憶と、その土地(正確にはそこに埋まっていたもの)に纏わる記憶を持つかつて生きていた女が、「魂」的な出会いをする物語だ。
すでに絶滅したとされる「ニホンオオカミ」を求める主人公の男(笠松将)は、その過程で、不思議な女(阿部純子)と出会い、彼女が生きていた(であろう)第二次世界大戦中の世界へ迷い込む。
彼女の家族と一緒に夕飯を食べて自宅へ戻った男は、後日その場所を再訪し、現代の住人からアルバムを預かる。
戦時中のものらしき写真が貼られたアルバムには、意外な物が写っていた。
ざっとそんなストーリー(詳しくは公式サイトを参照されたし)だが、男が探している「ニホンオオカミ」は男自身のメタファーではなかったのか。
男は、戦時中(=魔界)に迷い込んだ(=転生)して「なりたかった自分」になる。
何故なれたのか?
それは「転生」した先で見つけた「ルーツ」が、自分自身だったからである(だからこそ、あのラストシーンが成立する)。
「探していた自分」は「今ここにいる自分」だったのである。
メモ
映画『リング・ワンダリング』
2022年2月23日。@渋谷・シアター・イメージフォーラム
金子監督によるアフタートークのゲスト、社会学者の宮台真司氏が「魔界転生もの」と絶賛し、しきりに「これが理解できない『リア充』」をディスっていたのは面白かった(本稿2行目は、宮台氏の著書名『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎文庫)を借用)。
確かに「魔界転生もの」なのだが、転生して「何かを成した」あるいは「何も変わらなかった」どちらでも良いのだが、とにかく、そういった「オチ」はない。
「転生後の自分に影響を与える」人物自体が「既に転生していた自分自身」なのだから、つまり、始まりと終わりがリング状につながっていて「オチ」がない(ドラえもんを開発したのがのび太、と同じ構造)。
評判の映画だけあって、狭い映画館は、ロビーにも建物前にも人が溢れていて、当日券のお客さんは2回上映後の回のチケットしか買えない状況だった。
リピーターも多いようで、映画館にはスタンプカードまで用意されていた。
そりゃぁ「オチ=出口」が無いのだから、ハマるしかないのである。
おまけ
映画の舞台は、スカイツリーが間近に見える東京・下町。
ここで戦時中の世界に迷い込んだ男は、女の家で夕飯の「どじょう鍋」をご馳走になる。
「どじょう鍋」といえば、フォークシンガーのなぎら健壱氏が書いた『東京酒場漂流記』(ちくま文庫、1995年)にこんな文章がある。
映画は確か丸鍋だったと思うが、なぎら氏も『なんとなく男性的な丸鍋が好みである』そうだ。
……一杯やりたくなってきた。