舞台『夜は短し歩けよ乙女』

2021年6月。
森見登美彦氏が書いた人気小説(角川文庫、2006年。以下、原作)が原作の『夜は短し歩けよ乙女』(上田誠脚本・演出。以下、本作)というオモチロイ芝居が上演されていた。

黒髪の乙女を久保史緒里(乃木坂46)さん、先輩を歌舞伎俳優・中村壱太郎さんが演じている。
特に原作でもファンが多い(であろう)黒髪の乙女を演じる久保さんが違和感なく(暗転でハケる時でも、舞台袖までちゃんと「二足歩行ロボット歩き」してるし)、しかもキュートに演じていて、乃木坂及び久保さん推しだけではなく、原作ファンも「目の前に乙女がいる!」と感激できること必至である。


原作は、小説の特徴である場所移動の容易さや荒唐無稽の人物造形・エピソードなどがより過剰に表現されているのだが、作・演出家の上田誠(ヨーロッパ企画)は、それらを舞台の回転機構や映像、ラップに乗せたセリフ回しなどで上手くフォローしている。それだけではなく、小説ではできない、「観客の前で生で観せる」という芝居ならではの特性をふんだんに駆使している。

何より上田の物語構成が素晴らしい。
原作は、第一章の「春」から始まり、「夏」「秋」と続き、第四章の「冬」で完結するが、本作でもそれを踏襲し、各章のエピソードも必要なエッセンスを上手く抽出し、原作のイメージを損なわないよう工夫されている。

その工夫の一つが時間配分で、上田はどの章にも肩入れすることなく、ほぼ40分ずつ均等に割り当てている(第一幕「春」「夏」が80分、第二幕「秋」「冬」も80分)。
これは、読者一人一人がお気に入りの章があって不満が出ないよう配慮したのかもしれないが、それにしても原作でもエピソードの密度が異なる物語を均等に配分して芝居にまとめるのは、もの凄い力量である。


原作でも主人公2人が「読者」に向けて語っている(特に先輩は「読者諸君!」と明確に呼びかけている)が、これが「モノローグは観客に向けられる(近年の新しい動きは別として)」ことが必然化されている芝居と相性が良い。
この、原作で「読者諸君!」と呼びかける先輩に対して、上田は小説には不可能な演劇的手法を用い、物語を上手く観せている。

たとえば冒頭、一人登場した先輩が観客に向かい滔々と物語を語る合間に、別の人物が現れて「誰に喋ってるんだ?」と突っ込みを入れる。これにより、原作の「読者諸君!」のように「観客諸君!」と言わなくても、観客は「自分たちに向けられて物語が語られる」ということを理解する(通常の芝居は、同じようなモノローグでも、ほとんどの場合「目の前の観客」ではなく「想定された語るべき誰か」に向けられている)。

舞台構成では、「春」「夏」「秋」では、原作に沿ったエピソードを「芝居」で見せ、先輩乙女の恋の進展を具体的に説明した後、「冬」で演劇的手法を多用し、2人の恋の行方を一気に展開させている。

たとえば、先輩が自問するシーンでは、先輩と同じ服(パジャマ)を着た人物が大勢で先輩を取り囲み、次々に先輩を問い詰める。
同様に乙女に対しても、それまで関係していた登場人物たちが次々と乙女に語り掛け、先輩のところへお見舞いに行くよう働きかける。
さらに、乙女の想像で登場する「姉」が、実際の物語に入り込んでしまうのもそうだ。
こういうことは、小説ではできない。


ただ、個人的には、この演劇的手法の使用は、物語を完結させるための「力技」でしかなかったと感じている。
それは結局、先輩乙女の恋が、「春」「夏」「秋」で上手く進められなかったことが原因であろうと思う。

本作の意図としては、たぶん、各季節でのエピソードを完結させず保留状態にして、それらが「冬」で全てつながる、という構成にしたかったのだろうが、あまり上手くいっていないように感じる。
それを示す一つが「夏」に登場する絵本『ラ・タ・タ・タム』を「冬」まで保持して、結末に至るキーアイテムにしてしまったことである(その絵本は乙女が幼少期に手放してしまったもので、それが手元に返ってくるのも「何かの御縁」なのだが、それすらも観客に伝わっていたようには見えない)。

原作は、基本的に1話完結だが、各章の結末で先輩乙女に必ず何かしらの印象を残す(たとえば「夏」では、最後に『ラ・タ・タ・タム』が先輩から乙女へと間接的に渡り、先輩乙女の印象に残る)。
それで「御縁」がつながり、次章及びラストへの期待を盛り上げていく。
その結果、「秋」で乙女先輩を意識し始めたことが示唆され、続く「冬」でそれが現実になっていく展開となる。

ところが、エピソードを完結させず保留状態にした本作では、先輩の印象が乙女に残らない。
その結果、最終章「冬」での「世界ボーッとする選手権」のくだりで、何故乙女が「ボーッ」っとしてしまうかの根拠が伝わらず、結局、乙女の「ボーッ」という言い方と執拗な繰り返しが面白い、という印象しか残らない。
原作では、「世界ボーッとする選手権」や、本作に出てこない「鯉のぬいぐるみをポカポカたたく」という行為によって、乙女が恋心に戸惑い、気持ちを持て余していることが示唆されるが、本作でそれが観客に伝わっているとは思えなかった。

結局、「乙女の恋心」を観客に理解させるために、乙女が想像する「姉」が頻繁に登場して言葉で説明することになり、また、他の登場人物から『ラ・タ・タ・タム』のことを教えられたから先輩のお見舞いに行くという強引な展開になってしまった(原作は、上述のように恋心を持て余している乙女の背中を周囲がそれとなく押すだけである)。

つまり本作では、乙女自ら先輩を好きになったのではなく、(想像上の「姉」を含む)他の登場人物にけしかけられたという印象になってしまった(別の考えをすれば、『先輩は自身で埋めた「外堀(=他の登場人物)」が正しく機能し、作戦に成功した』とも言えるが……)。

なお、「春」から引っ張った「高坂」のエピソードはマンガチックで、登場するごとに観客の人気が高まり、とても効果的だった。

とはいえ、上述したように、言葉やわかりやすいエピソードで観せられた方が、原作を知らない人や、観劇に不慣れな人、また純粋に「エンターテインメント」を堪能したい人には、理解しやすく楽しめるのは確かであり、そういった意味において、それらを上手くまとめ上げた上田の構成力は素晴らしい。


そしていよいよ、先輩乙女が「進々堂」で待ち合わせするラストシーン。
原作は、二人の想いがそれぞれ文章で綴られて「ほっこり」する印象で、これぞ文学という味わいである。

窓から射し込む冬の日射しが、まるで春のように、温かく見えました。その陽だまりの中で、先輩は頬杖をついて、なんだかお昼寝途中の猫のようにぼんやりとしています。その姿を見た途端、私はふいに、お腹の底が温かくなる気がしました。まるで空気のように軽い小さな猫をお腹にのせて、草原に寝転んでいるような気持ちです。

森見登美彦著『夜は短し歩けよ乙女』

芝居では、さすがにこの再現は難しい。
というか、それまで賑やかな展開だった芝居がラストシーンで急に「ほっこり」すると、観客は梯子を外された感じになり、モヤモヤした気持ちで劇場を後にすることになるだろう。
だから、今までの印象を損なわないよう「明るく軽快な場面」で先輩乙女の恋の進展が楽しみになるような「スッキリ」とした結末にした、これも上田の観せ方の上手さである。

余談だが、原作のラストシーンを読み終わった後、第一章に戻って「春のような温かい日射しが射す進々堂で二人が回想話をしている」ところを想像しながら読み返すと、違った味わいが楽しめる。

それ以外にも原作ファンにとっては、「詭弁踊り」や「偏屈王」など、文章から想像するしかなかったエピソードの実演が観られる(想像どおりか否かは別にして)という、嬉しい喜びも味わえる。

だから個人的には、本作は原作を読んでから観る方が、より楽しめるだろうと思う。


「李白風邪」

原作にも本作にも全く非はないのだが、「李白風邪」が現実を想起させて、ちょっと心が物語から逸れる感じになってしまったのは残念だった。
「李白風邪」については、本当に不運だったとしか言いようがない。
この展開については、大変な逡巡があっただろうと思う。

それとともに、「時代を反映する」という演劇は別として、この先何年かは「エンターテインメントに徹する」ような芝居で「風邪」を扱うのは、結構難しいのかもしれない、とふと思ったのである。

あーあ、現実の世界でも「潤肺露」があればいいのになぁ……

(2021年6月11日。@新国立劇場 中劇場)


おまけ:コタツについて

「秋」の学園祭で、荒唐無稽とも思える「韋駄天コタツ」が登場するが、京都にある実在の大学においては、見慣れた風景として存在するらしい。
杉本恭子著『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社、2020年)には、こう説明されている。

森見登美彦氏の青春小説『夜は短し歩けよ乙女』に登場する韋駄天コタツで知名度を上げたこたつ。(略)キャンパスというパブリックな空間において。お茶の間という団欒の場に君臨してきたこたつはきわめて異質であるがゆえに、反転して非日常的空間をつくりだす力があるのだ。

京大構内およびその周辺に現れるこたつは古畳とセットで設置され、麻雀あるいは飲食を伴うことが多い。対話の場を開くためのこたつ、抗議の意思を表す座り込みを快適にするためのこたつ。歓迎の表現としてのこたつから、単なる悪ふざけのこたつなど、そのバリエーションは大変に幅広い。


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