街の小さな映画館が超絶な挑戦をしてしまった話~映画『こころの通訳者たち』~

いわゆる「健常者」と云われる人たちからすれば、単純に「健常者」と「障がい者」とに二分されているように思ってしまいがちだが、「健常者」が様々であるように「障がい者」も様々であり、それらは想像以上に分断され、相互のコミュニケーションに高い壁がある。

近年、障がい者と云われる方々も気軽に映画が楽しめるような取り組みが進んでいる。
客席の車椅子スペースは一般的になりつつあるが、それ以外にも、聴覚障がい者のためのバリアフリー字幕(一般の字幕ではなく、音楽・効果音などの説明も文字で映し出される)や、視覚障がい者のための音声ガイドが入った映画なども制作され始めている。
そうしたサービスを完備した映画館を「ユニバーサルシアター」と呼ぶが、驚くことに日本では「シネマ・チュプキ・タバタ」ただ1館しかないのだという。
さらに驚くのは、その日本で唯一のユニバーサルシアターが『東京都北区の田端駅下仲通り商店街の一角にある、座席数20席の小さな映画館』だということだ。

「シネマ・チュプキ・タバタ」では、代表の平塚千穂子氏自らが中心となって音声ガイドを制作・録音しており、その作業を追ったドキュメンタリー映画が『こころの通訳者たち』(山田礼於監督、2022年公開。以下、本作)である。

この100分に満たない映画は、「既存のドキュメンタリー映画に音声ガイドを付ける作業」という言葉のシンプルさに比して、タイトルがとても大袈裟に感じられるかもしれない。しかし本作を観れば、これ以上ないほどピッタリなタイトルだということがわかる。

さらに本作は物凄く複雑な構造になっているのだが、それは音声ガイドを付ける映画に由来するものだ。
しかし、だからこそ、「既存のドキュメンタリー映画に音声ガイドを付ける」という一見シンプルに思える作業が、街の20席しかない映画館という枠を遥かに超えた、世界的な価値があると言っても過言ではない挑戦となった。

平塚代表らが音声ガイドを付けようとしているのは、『ようこそ 舞台手話通訳の世界へ』(越美絵監督)という、2021年に愛知県・穂の国とよはし芸術劇場 PLATで上演された舞台『凛然グッドバイ』(樋口ミユ作・演出)に携わった3人の「舞台手話通訳者」を追ったドキュメンタリー映画。
なぜこの舞台がドキュメンタリーとなったかといえば、舞台手話通訳者たちが単なるセリフの通訳ではなく、演者として舞台に立っているからで、この特徴こそが本作の構造を複雑にしている。

つまり、「目は見えるが、耳の聞こえない人」を対象にした手話を、「耳は聞こえるが、目の見えない人」に説明するのである。
まず平塚代表は、数名の視覚障がい者の方に音声ガイドなしで映画を観て(?)もらい、意見を聞いた。
後に、この方たちを中心にプロジェクトチームが結成されるのだが、最初に出た意見は「ガイドの必要性」だ。

舞台手話通訳者たちが「役者のセリフが聞こえない人たちのために存在している」のだとすれば、耳が聞こえる視覚障がい者は「役者のセリフが聞こえている」のであり、手話通訳者の動きを音声ガイドで知る必要がない。

しかし、この映画は舞台の記録映像ではなく舞台手話通訳者を主題としているため、手話通訳者の動きを知ることができなければ音声ガイドの意味が全くなくなってしまう。

この事実に気づいたことによって、「障がい者」をひとくくりにしてしまいがちな「健常者」と云われる人々だけでなく、自身を「障がい者」だと認識している人々にとっても、別の障がいを持つ人々への理解が乏しく、また実際のコミュニケーションに高い壁が存在することが明らかとなり、故に、「既存のドキュメンタリー映画に音声ガイドを付ける作業」は、街の小さな映画館の枠を遥かに超えて、とてつもない挑戦となっていくのである。

その挑戦は本作を観ている観客にとっても、「他者を理解するコミュニケーション」の困難さを考えさせられ、平塚代表たちの挑戦に、その困難を乗り越えるためのヒントと勇気と希望を見出すことができる。
そう、そのヒントこそが『こころの通訳』であり、それは全く大袈裟なタイトルではないのである。

(2023.03.02 追記)
平塚代表は、文化庁が主催する令和4年度(第73回)芸術選奨の芸術振興部門新人賞を受賞されました。

メモ

映画『こころの通訳者たち』
2022年11月4日。@新宿・K's cinema

ギリギリ K's cinemaの最終上映回に間に合った。
上映終了後、本作にも出演している、音声ガイドプロジェクトに携わった中のお二人が本作のエンディング曲を歌ってくださった。
私の隣の席に座っていた2人組の男女は、手話で会話していた。
それを珍しく感じたということが即ち、聴覚障がい者の方々の映画鑑賞自体が一般的ではないという証しではないかと思った。
本文にも書いたが、客席の車椅子スペースは当たり前になってきているが、まだそのスペースが正しく機能しているとは思えない。
車椅子の方はもちろん、手話で会話する方、白杖を持ったり盲導犬と同伴の方、それ以外にも様々な障がいを持った方たちが、いわゆる「健常者」と云われる人たちと一緒に映画を楽しむ光景が当たり前の日常になればいいなと思う。


付記:手話教育について

手話とは無縁だった私は、聴覚障がい者は日常的に手話を用いるものだと思っていたのだが、映画『へんしんっ!』(石田智哉監督、2020年)で「21世紀に入っても手話教育が禁止されていた」と知って驚いた(本作でも少し触れられている)。

日本において手話教育が禁止されていたのは、戦前に『教育行政に携わる権力者によって曲解』されたからであると、『時間の解体新書』(明石書店、2022年)の著者である田中さをり氏が指摘している(以下の引用は全て『時間の解体新書』)。

20世紀初頭に活躍したドイツの哲学者で、実験心理学者として功績を残したヴント(1832~1920)である。ヴントは、大著『民族心理学』のなかで次のように述べている。

最初の言語(Ursprache)は、音声言語における純粋な限界概念であるが、手話においては直接に観察することができると言える。

[P47]

この『民族心理学』を仔細に読めば、『ヴントは手話における「原初の言語」性を見た』[P50]ことがわかると田中は言う。
しかし田中は、ヴントの手話学説がほぼリアルタイムで日本に伝わっていたにもかかわらず、それが『教育行政に携わる権力者によって曲解され、教育業界に広まった』[P54]ため、21世紀に入ってなお手話教育が禁じられ、「純口話法教育」が強要されたと指摘する。
本稿はその論証が主旨ではないため割愛するが、『教育行政に携わる権力者によって曲解』された理由の一つに、『聾児の口話教育の成功事例をもって国外での日本語教育に応用範囲を広めることで、国民精神を共有する「皇国の民」の拡大に寄与しうると考えていた』[P68、太字は引用者による]と、田中が指摘していることだけは記しておく。



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